闘病記(J.J.様)

  J.J.氏〔発症時=平成15年8月、28歳、男性、会社員〕


 1.前兆

 暑さ激しい8月中旬、珍しく風邪をひいた。俗に言う夏風邪だろうか?特にひどい訳でもない症状が10日程度続いた後、症状は緩和された。

 休日の日、久々に自宅で焼肉を食べ、ウォッカを飲んだ。これが半年に及ぶ闘病生活前最後のご馳走?になった。

 休日明け、どうも体が風邪をひいたときの関節痛のように『重い』。『歩く・走る・しゃがむ』といった動作が上手に出来ない。初めは風邪がぶり返したのだろうと思っているうちに5日間の勤務が終わった。

 休日の初日、何かに掴まらないと起き上がれない様な状態になっていた。体も『だるい』。子供と遊ぶのもままならない。やはり何かが『おかしい』と感じ、近くの内科を受診する。

 風邪が長引いているのと仕事上の疲れやストレスでしょうと言われ、ビタミン剤の注射を受ける。その日は風呂にゆっくり入り、軽くお酒も飲んで早めに就寝した。

 休日の2日目、容態は昨日以上悪くなっていた。

 立ち上がれない、力も入らない、上手に動けない、痺れる・・・・・

 妻とは『神経や脳とかの病気だろうか?』と話をし、近くの総合病院を受診する。

 大きな病院だが、神経内科や脳神経外科といった診療科目がなく、整形外科に回される。

 腰と首のレントゲンを取るが、レントゲン上は特に異常が無いといわれる。この時、腱反射を調べるが、『弱い』と言われ、近くの脳神経外科を紹介される。

 (ちなみに、この時には自力歩行が難しくなっていた。)

 脳神経外科に着くと、沢山の診察待ちの方たちがいるにも関わらず、直ぐにMRIを撮った。初めて入るMRIは宇宙船のようだった。暫く待った後、診察室に呼ばれた医師は分厚い医学書を広げながら、一通り診察を終えると、『たぶん、ギラン・バレーでしょう』と言われた。入院施設が無い病院だったことから、近くの『脳・神経専門』のK病院を紹介される。


 2.入院

 入院する事になるといわれ、一度自宅に戻り入院の準備をすると同時に、実家に子供を預けに行く。結局、紹介先のK病院に着いたのは詳しく覚えていないが、夕方になった。病院に入るなり、医師と看護師が飛んで来て、『呼吸苦しくない?』と聞いて来た。特に問題は無いと答えると、『呼吸が出来なくなる事もある』と聞かされ、驚いた記憶がある。

 ちなみに、このK病院は某国立大学から『脳・神経専門』の病院として株分けした病院であり、大学病院との連携も深く、多くの研修医や実習生の受け口となっている。

 肺のレントゲンを撮り、一通りの入院手続きを終えると、病室に案内される。まだ夕方だというのにすごく静かだった事と、『若い人いないなぁ』という感想を持った。

 着替えも中途半端に、直ぐに腰椎穿刺を行う。海老のように丸くなった背中で『ごぞごぞ』と何をされているのか分からない不安があったが、痛みや痺れ等は特になかった。その後安静の後、遅めの夕食にありついたが、やはり、病院食は『味気が無い・量が少ない』。

 夕食後に、主治医の診察が始まる。名前や生年月日を聞かれたり、腕や足の上げ下げ、自転車漕ぎのポーズをしたり、主治医の指と私の鼻を交互に指で触れたり・・・・・神経内科ではごく一般的な診察のようであるが、意識がはっきりしているので、何でこんなおかしな事をするのだろう?と思いながらの診察であった。診察の結果、『ギラン・バレー症候群』でしょうとの診断を受ける。治療方法や予後の説明を聞くが、あまりにだるく疲れていたので、何を説明されたのかあまり覚えていないが、1ヶ月程度の入院が必要であると告げられ、病気についての説明文章をもらい、とりあえず床に就いた。


 3.治療開始

 Ivig開始初日、看護師が『シャンデリア』の様な点滴瓶を10本持って来た。

 昨日、説明されたそうだが、『ヒト乾燥スルホ化免疫グロブリン製剤』??

 見た目は『白っぽい粉』で生食(なのかな)を入れて点滴が始まった。あまり思い出せないが、3時間程度かかった記憶がある。

 説明されていた様な副作用は特になく、5日間の点滴は終了した。

 この頃は、歩行はもちろん自力で立ち上がる事さえ出来なくなっていたが、排泄は辛うじてトイレで行う事が出来たが、便座がとても『痛かった』記憶がある。

 自発呼吸は出来ていた。下半身は全く『ダメ』だが、上半身は特に問題なく機能していたので読書をする、飲食をしたりは自力で出来ていた。

 Ivig終了1週間位で自転車漕ぎのポーズが出来るようになり、順調に回復しているみたいだね、と主治医から言われる。この調子だと予定通り1ヶ月程度で退院できるらしい。

 会社の部下たちが見舞いに来てくれた。嬉しかった反面、弱っている自分を見せたくなった気持ちがあった(普段、口煩い人間なので)。

 慣れない入院生活のためか、便秘になった。下剤を貰って飲むが、一向に改善されない上に、服用後発熱や嘔吐感が起こる様になり、薬を変えてもらうが、便秘自体の改善はされなかった。

 気持ち的には、暫くの間、仕事を忘れて心も体もゆっくり休める・読書もたくさん出来る位の軽い気持ちしかなかった。不規則な勤務体制で長時間労働・強いストレス化の中での仕事の中、夜遊びや飲酒・・・・・体を酷使した『つけ』が来たのかも知れない。

 自転車漕ぎのポーズが出来るようになった数日後、急にそれが出来なくなった・・・・・

 主治医から少し特殊な症状だと言われる。下半身は触覚はもちろん、腱反射も無く、異常感覚などの症状があるのに対し、上半身は全くといっていいほど症状がない。また、まぶただけに軽い麻痺があるなど、バランスが悪かったからである。

 (この頃からコンタクトレンズが使用できなくなる。眼鏡を買っておくべきだったと後悔。)

 下半身の症状が重い場合、ステロイドパルス療法を行うと改善された例があったと主治医から言われて、行ってみる事にする。

 一通り副作用の説明等を受け点滴を開始した。確か3日間程度だったと思う。Ivigに続き、特に副作用等はなく終了する。

 9月中旬、誕生日を迎えたため、妻がケーキを買ってきてくれる。いつもなら、我先に平らげる勢いだが、この時ばかりはそんな元気はなかった。今まで生きてきた中でもっとも味気ないながら印象深い誕生日になった。


 4.再燃 

 9月下旬、丁度1回目の治療費の請求書が来た頃だったと思う。まず高額な請求に驚いた。高額医療は使えるだろうが、それにしてもびっくりした。

 (高価な点滴ですよと言っていた看護師の言葉の意味が分かった。)

 ステロイドパルス後、一旦、足の上げ下げや自転車漕ぎなどが出来るようになったが、そのまま回復はしてくれなかった。主治医から『再燃したみたいです。入院期間が延びると思う』と説明をうける。

 (後から聞いた話だが、再燃する確率はかなり低いらしい。)

 10月に入り、病院の人事異動があり、主治医が入れ替わった。あまり病室に来なく、口数の少ない主治医であったので、妻や両親はその事を不快に思っていたようである。しかし、本人としてはそれほど気にならなかったし、詳しく病気の事や、過去の患者の話等をしてくれたので、大変ありがたかった。

 その後、2回目のIvigや血漿交換を主治医にお願いしたが、『免疫系の治療』になるので、立て続けに行うのは止めて、、もう少し観察してから再開しましょうと言われる。同時に関節が固まらないようにリハビリも始まった。リハビリといっても下半身は自分の意思に反するので、OPが一方的に動かすに留まった。上半身は指で輪を作り引っ張り合ったり、上げ下げなどを行う。ちなみに、この時の握力は両腕とも2㎏位だったと思う。

 10月の中旬になっても、症状が一向に改善される事はなかった。病室はナースステーションから2番目に近い所であったが、危機は脱出したであろうとの医師の判断で、少し遠い病室に移動になった。

 毎日ベッドで寝たきり、そろそろ飽きてきた・・・・・上半身がまだ使い物になるので、無理やり寝返りを打とうとするが、下半身が着いてこない。寝返りさえも自分ひとりでは出来なくなっていた。下半身は相変わらずで、こちらの信号に全く応えてくれない。

 言葉では言い表せない、絶えず襲ってくる異常感覚と、体全体(特に下半身)が鉛の様に重くベッドに引きずり込まれる感覚は、3年以上経った今も鮮明に覚えている。

 それに、リハビリの際の痛みも相当なもので、少し足を持ち上げられただけでも、膝裏から足の付け根にかけて激痛が走った。

 それともうひとつ辛かった事がある。それは『排泄』である。寝たきりの状態であるから、排尿はもちろん尿瓶だった。上半身が動くので、自分で排尿する事は出来たが、後片付けを頼まなくてはいけない。もっと困った事は排便である。トイレに行くことはもちろん出来ないので、ベッド上での排便。しかも力むことも出来ないのである。医師や看護師からは浣腸を薦められたが、変な意地もあって頑なに拒んだ。看護師達はおなかのマッサージや下剤を変えたりしてくれたが、一向に排便は出来なかった。その後、摘便をされたのだが、あまりの痛さに浣腸してくれ!と自分から頼んだ記憶がある。その後、自己排尿も困難になり、カテーテルを使うことになった。看護師は何とも思ってないだろうが、自分のより若い看護師にカテーテルを挿入してもらったが、すごく恥ずかしかった。

 そんなこんなして回復を待ったが、一向に改善される気配が無かったので、主治医からそろそろ2回目のIvigをしましょうと言われる。


 5.2回目のIvig

 2回目のIvigが始まった。前回と違い随分と速度が遅い。5時間くらいかかっている様な気がする。1日目の夜突如、下腹部の痛みに襲われた。どうやらカテーテルが詰まっていたようなので、ひとまず新しいカテーテルに代えてもらい、事無きを得ることが出来た。

 2日目のIvigが始まったこの日は、秋だというのに夏のような日差し(窓際だったので)で凄く暑かった記憶がある。進まぬ点滴と暑さでイライラしていた。その日の夜、日中の暑さのためか、凄く喉が渇くのでお茶を飲もうとしたが、どうも上手に飲むことが出来なかった。

 真夜中、突然『唾』が喉に張り付き、呼吸が苦しくなったと同時に、唾液が飲み込みにくくなり呼吸が苦しくなった。ベッド上で吸引して貰うが、一向に改善される事がなかったので、そのまま処置室に連れて行かれる。処置室についてからもしばらく吸引してもらったら、症状は落ち着いた。『とうとう自発呼吸も出来なくなるのか??』不安が募った。

 その日の朝まで処置室で過ごし、ナースステーションから近い(前回と同じ)病室が開いたので、『そちらに移動しましょう』と言うことで、またまた『重病人部屋』に逆戻る事になった。

 それに伴い、無菌性髄膜炎(Ivigの副作用か)の疑いもあるので、落ち着くまでIvigを停止すると医師から告げられる。また、飲み込みにくいので、食事も止められてしまい、点滴で補うことになった。

 その日、妻が長男と病院にやってくる。病室が変わった事・Ivigを停止した事・食事が止められた事に酷く動揺している(当の本人もそうだから仕方ないか・・・・・)。

 これを境に長い(といっても1ヶ月半位)停滞期に入る。

 6.停滞期
 2回目のIvigが中止されて4日程度は、嚥下に難がある可能性を考慮して、24時間点滴になる。栄養は採れているのだろうが、咀嚼をしないというのはやはり物足りないものである。この頃は固形物はもちろんだが、水さえも飲むことが出来なかったので、水分補給は点滴と水含ませた脱脂綿に頼らざるをえなかったが、ゼリーやプリン等は難なく口にする事が出来ていた。

 そんなこんなしている間に、疑われていた無菌性髄膜炎も影を潜めたこともあり、中断していたIvigの再開。残り3日分はスムーズに終わる。今回も、前回と引き続きステロイドパルスを併用する。

 その後、次々と退院していく同病室の方達を見守る中全く進展がなく、ベッド上で『むなしさと底知れぬ恐怖・不安』と戦う日々が長く続く。食事は相変わらず流動食に近いくらい細かく刻んであって、まるで赤ん坊の食事のようである。食べた気がしないので、主治医にお願いした所、挑戦してみても良いというので、普通食にしてもらうが・・・・・主治医の言葉通り『むせて』しまう(やっぱり医者の言うことは聞くべきだ)。

 見舞いが来ない時間帯の過ごし方は、ひたすら『ぼけぇ~』とするか、若い女性看護師を見るくらい(男なので勘弁して)。特に検査などは無いので、昼間の暇な時間は寝ることが多くなり、必然的に夜が眠れなくなっていた。個室でないのでテレビを見るわけにもいかないので、仕方なくラジオで長い夜を乗り切る事になった。

 また昼間は動きが取れるのであれば気晴らしに散歩などに行けるだろうが、車椅子に乗る事はもちろん、ベッド上でさえ一人で起き上がることも出来ないので、無理な話である。

 そんな中での時間潰しは、同室の患者さんと話そうと思っても、自分の倍以上も年齢が離れているので話が合うわけもなく、看護師と捕まえて話をするのが日課になっていた。

 中でもOさんとNさんは色々と話をしてくれて、気を紛らわすことができた。ただ、この病棟の看護師は自分と同い年か年下がほとんどなので、すごく気を使ったり、恥ずかしかったりした事が多かった。

 『俺の神経はいつ再生するのか??』と主治医に聞いた事がある。神経の再生は一日に1mm程度しか再生しないので・・・・・正直分からないなぁ・・・・・と言われる。

 また、神経が繫がっても必ずしも動くようになる保証は無いと言われ、愕然とした。

 この頃から同時に関節が固まらないようにという事で、軽いリハビリが始まる。とはいっても、一方的に足や手を動かされるだけだが、入院から暫く体を動かしていない&筋萎縮のためにすごく痛い・・・・・感覚がない足でさえ痛いのである。

 手(上腕)に関しては、横に100度位広げると激痛。足は、垂直方向に20度上げると激痛。

 ダメダメな体になってしまったようである。

 時折ベッド上で上体を上げる体勢に挑戦するも、腰と足の付け根が半端なく痛い。ベッドの脇に足を『ぶらっ~』とさせて座ろうものなら、股関節から足が抜けてしまいそうな位の重量がかかり筆舌出来ない痛みが襲って来た。また、足にかけたタオルケットがズレるだけでも痛みが襲ってきた。

 風呂にも入ることが出来ないので、毎朝看護師が体を拭いてくれ、一時はすっきりするが、やはり湯船につかるのとは大違いである。洗い流さないので、『垢』がたまる(特に足の指)。

 時折、洗面器の中で足だけ洗ってもらったのだが、痛みとむず痒さの感覚が凄まじかった。


 7.回復期-1

 11月に入ってもまだまだ良くなる気配が全くない。足は全く動かないし異常感覚や痛みがまだまだ酷いが、この頃になると寝てばかりでは体に悪いという事で、1日1回は車椅子に乗るようになった。

 足が凄く重いので、足置きに載せておくのが精一杯。ズレ落ちたものなら激痛が走って大変だったし、腕力も相当弱いので乗せることすら物凄く困難な状態だった。廊下を10mくらい進むのに10分以上かかり、戻るのにも同じ位、いやそれ以上の時間がかかる。俺の行動範囲はすっかり狭くなってしまったようだ。また、ベッド⇔車椅子の移動は、看護師の補助が必要であったが、痛みが凄かった。

 それと酷かったのが『頭痛』である。一日のほとんどを寝て過ごしているので、状態を上げた時にすさまじい頭痛が起こった。

 11月半ば位から徐々に変化が出てきた。上半身は相変わらずだが、全く動かなかった右足の膝の裏の筋肉が少しだけ動かせるようになった。何のことない事なのだが、すごく嬉しかった。これを皮切りに色々な箇所の運動神経が戻ってきたが、感覚についてはまだまだ戻りきらないが、動いたときの激しい痛だけは暫く続いた。

 良くなり始めると早いようで、今まで寝たきりだったリハビリも車椅子からリハビリ用のベッドに横移動ではあるが、出来るようになったり、歯磨きが出来るようになったりした。

 しかし、排泄に関してはまだトイレに行くことが出来ず(と言うか便座に座れない)にベッド上での排泄が年明けの1月中旬くらいまで続く。

 同じくらいの時期に『ルンバールとMRI』を行う。両検査結果とも悪化はしていないが(悪化していた場合はCIDPの疑い)、逆に良化もしていない・・・・・と結果が出た。

 11月中には、何箇所か筋肉の動きが出て来た事と尿カテーテルが外れたが進展であった。


 8.回復期-2

 12月に入ると筋肉の動く箇所が増えてきたが、まだまだ立つ事は程遠く相変わらず車椅子の日々が続くが、食べ物に関しては、それまでの様な細々としたものではなく『形』のある物が食べられるようになる。ベッド上で上体を起している時間や車椅子に乗る時間が増えて病院内を探索(といっても小さい病院なので)したりしたが、長時間同じ体制でいると太ももの激痛と頭痛が酷かった。

 12月中旬になると、いよいよ起立訓練が始まった。2人のOPに抱えられながら立った(と言うか立たされている)訳だが、まず激しい頭痛が襲ってきた。足の感覚はほとんど無いので立っているのかよく分からない状態だったし膝がガクガクして全く話にならない状態であった(この後、『立った』感覚を掴むようにとの事で1日1回は行なうようになった)。

 車椅子に長時間乗っている事も可能になったのでベッド上にいることは大分少なくなった。狭い病院ではあるが、ここ数ヶ月間自分の足で病室を検査以外で部屋を離れた事が無かったので、自分で動けるのはとても気分がよく気分転換になった。

 朝食後の日課はナースステーション前の自販機で大好きなコーヒーを買って、仲の良い看護師を捕まえて雑談するか外を眺める事。入浴のできる日は入浴後売店にアイスを買いに行って食べる事。症状が多少改善された事で肉体的精神的にも楽になったので、読書を始める(今までは本を捲るのにも一苦労だった)。

 それと『字』を書く練習も始めるが2kgの握力では上手にペンを持つことすら出来ず、自分の名前はもちろんだが、簡単なひらがな(例えば『い・つ・く』)すら満足にかけなくてミミズ字になってしまった。また電話を掛ける事も困難だった。

 (以前フジTVで1リットルの涙というドラマで電話を上手に掛けられないシーンがあったが、あんな感じでプッシュする事が出来なかった。)

 もちろん(?)クリスマスも病院で過ごすことになる。高カロリーな食事もホールケーキを大好きなアルコールも無い小さなケーキ1個(しかも昼食)のさびしいクリスマスとなった。

 トイレと通常の入浴を除いた大まかな日常生活が出来るようになったので、正月の3日間は自宅で過ごす事になった。自宅までは介護タクシーを使って帰宅する。外泊も嬉しいが、久々に見る外の景色も凄く新鮮だった。『早く治さないと!』という気持ちが一段と大きくなった。

 外泊から戻ると間もなくナースステーションから一番遠い病室に部屋変えが行なわれた。

 ここは言わば『退院予備軍病室』で検温時・食事時・ナースコール時・検査時以外は本当に看護師が来ない・・・・・入院しているはずの患者もほとんど病室にいない。

 そんな一風変わった??病室で軽い脳梗塞・急性期を過ぎたGBS患者・軽度のパーキンソン病患者など比較的手が掛からない患者が多かった。

 9.歩行訓練開始

 1月になると本格的な歩行訓練が始まった。最初はリハビリ室の5mほどの平行棒を使う。以前より足の感覚(地に着いている)は戻ってきているが、自分で動かしている感じは全くなく、OPが足を持って前に踏み出させている感じで、歩いているというより歩かされている感じだった。

 なので、腕の相当の負担が掛かる。腕力も落ちているので自分を支えることは出来ず、2人のOPに前後から抱かかえられる感じでの訓練が2週間程度続く。歩行訓練と同時進行で、腕力を鍛えるトレーニングも始まる。1㎏ほどのダンベルの上げ下ろしだが、これが全くといって良いほど出来ない・・・・・握る力も衰えているので、まともに掴むことさえできない状態になっている。ただ、足を踏みだす事は出来ないが、『何か』に捕まっていれば起立できるようになった。

 歩行訓練を開始して2週間程度経つと、2・3歩であるが自分で足を踏み出す事が出来るようになった(膝はガクガクいうので装具をした状態)。

 それに伴ってなのか、徐々に足や尻のやせ細っていた筋肉が戻り始めたので、座っていられる時間が多くなった。1ヶ月前にはここまで回復しているとは思わなかったので、妻や看護師・医師も結構驚いている。

 時を同じにしてトイレトレーニングも開始する。大の方はやはり尻が痛く座っている事が出来ないが、小に関してはおっ掛かった状態でなら何とか用を足せるようになった。

 10.退院に向けて

 1月後半に入ると膝の装具を外しての歩行訓練が始まる。この頃には膝を曲げることも多少だが出来る様になったのでリハビリ室の階段を登ろうとしたが、これは流石に無理だった(一段上に踏み出せるが、もう片方の足で踏ん張ることが出来ない)。

 平行棒での歩行は、OPの介助なしで5m程度を行ったり来たり出来るようになる。それまではリハビリをさせられている感じだったが、この頃のリハビリは自分でやっている感じが大きくとても楽しかった。ただ、オーバーワークになるのでやりすぎに注意するように指導を受けた。病棟内でも歩行器を使って歩行訓練を行うようになる。209病床とあまり広くない病棟だが、ゆっくり時間をかけて午前・午後1~2周する事が日々の日課となる。日常生活においては、歩行と排泄(大)以外はほぼ一人で出来るようになる。

 飲食に関しても、何でもおいしく食べられるようになり体を動かしているせいか病院食だけでは足りなくなり、売店に行ってちょこちょこお菓子を買うことが多くなった。やはり朝一のコーヒー(ブラック)と入浴後のアイスは欠かせない。

 装具が外れてからは、自分でもびっくりする位回復のスピードが速く。次の週には階段の上り下りが出来るようになり、排泄(大)も便器に座れるようになった(これで気兼ねなく夜中もトイレに行けるようになる!)。歩行器も使わなくなりロフストランド杖を使い歩行することが出来るようになる(多少フラツくので何回かほど転びそうになった事がある)。

 手足の動きや感覚に関しては、大きな動きは出来ないが、日常生活に大きな支障は無い程度に回復をする。感覚に関しては独特の皮膚下を何かが這っている感じと足指先の過剰な痛感はまだ消える事が無かった。ペンを持って字を書くことも何となく出来るようになり、読める字が書けるようになった。ただ、お風呂だけは普通の浴槽ではなく寝たままの入浴であった。

 11.いよいよ退院

 2月に入ると以前よりスムーズに歩行する事が出来るようになり、日常生活も問題なくなってきたため、時間を持て余す事が多くなった。病棟が1フロアーしかなく、患者が自由に散歩と言うか探検?出来るスペースはあまりない。ただ、病棟以外に出かける時は万が一の事を考えて車椅子で出かけるようにした。

 日常の過ごし方は、リハビリ以外は読書をするかクロスワードを解く事が多かった。クロスワードは結構いい時間つぶしになる。ただ、辞書がないと中々前に進めないので、妻に持ってきてもらう事にする。

 リハビリも相変わらず好調で、3段程度の階段ではあるが上り下りが出来るようになった。ただ、上るときは比較的スムーズに出来るが、下りるのが上手に出来ないのである。まぁ、先月までは歩く事さえ出来なかったので、奇跡的な回復のように思える。

 2週目くらいになると、ロフストランド杖だけで休まず病棟1周することが出来るようになる。それに伴い、日常生活の解除は入浴だけとなる(入浴は最後の最後まで寝たままの入浴だった)。

 主治医から順調に回復しているようなので、そろそろ退院を考えましょうと提案がある。

 『待ってました!!』しかし長い入院生活だったため、自宅アパートは既に解約し私の実家に住んでいた。幸いの事に一軒家なので階段の上がり降りは必要が無い。

 (ちなみに入院中うちの両親と妻が色々と言い合いがあり(俗に言う嫁姑問題ですね)、実家を出た後は疎遠になってしまった。)

 退院が決まると、リハビリも自分でやるように言われ、検査も無いので、ますますやる事がなくなる。この辺りでは手足の末梢の感覚は鈍く冷たい感じがあった。神経の再生を後押しする意味で、ビタミン剤を飲み始める(通常に食事していれば摂取出来るそうだ)。

 退院と決まると、嬉しい反面不安も募ってくる。排泄(病院と大きさが違う)と入浴だが、両親が介護用のお風呂椅子を買ってくれた(自分たちより先に息子がこんな椅子を使うのはどういう気持ちなんだろうか??)。

 あっという間に退院の日がやってきた。同病室の方たちに別れを告げナースステーションに挨拶に行く。主治医も看護師たちも待っていてくれた。色々な意味で凄く思い出があるので、ちょっぴり悲しい気持ちがある。玄関まで見送りに来そうだったのだが、「仕事もあるでしょうから、ここで!」と言って約半年間色々なことがあった病棟を去った。

 介護タクシーに揺られて実家に向う。見慣れた景色だったが季節はすでに『冬』である。入院したときには無かった雪景色を見ながら帰った。

 12.退院後~復職まで

 退院後考えたのが、いつどのようなタイミングで復職するか?だった。その足で会社に向かい数名の上司と部下に挨拶をする。『心配したよ!早く戻っておいで』という言葉が胸に染みた。私の仕事は『しゃがむ・立つ・飛ぶ・走る』と体を使う仕事なので、ある程度からだの自由が利かないと仕事にならない。上司からは事務所の中の仕事もあるから自分のペースで復帰して来いと告げられる。

 原因不明の難病を罹って半年も抜けた俺にこんな暖かい言葉を掛けてくれるとは!『解雇や降格』になってもおかしくないと思っていたので嬉しかった。

 復職はおおよそ1ヶ月先の給与締め日に設定してリハビリに励むことにした。

 実家に帰ってからは食事も何でも食べることが出来、心配していた排泄や入浴も問題なく行う事が出来た。

 (実家はいわゆる『尺モジュール』である。住宅展示場に行くと、将来のために『尺』ではなく車椅子が通れる『メーター』を薦められるが、私的には『尺』が良いと思う。大きい家なら移動に便利だが、一般住宅の大きさでは、車椅子を使うより這ったり寄り掛かったりするほうが断然多いから。ちなみに我が家は尺モジュールにしました。)

 実家に居てもつまらないので、昼間は公園やショッピングモールへ歩行のリハビリを兼ねた気分転換が多かった。杖なしで歩けるのだが、万が一の事を考えてダスキンでレンタルする。この『杖』を持っていると好奇の目で見られる事が何回かあった。仕事が忙しくて行けなかった公園・動物園にも行った。やはり家の中より外の方が気分もよくよいリハビリになる。

 復職設定日の1ヶ月後は思っていたより早く実現する事になった。

 13.現在

 発症後4年が経過した現在は発症前とほぼ同じ生活が出来る様になりました。

 正直ここまで回復できるとは自分でも思っていなかったし、病棟&外来の主治医や看護師たちも驚いているようです。

 後遺症として感じられるのは、足の腱反射が微かなので、階段の上り下りがスムーズにできない事(と言っても見た目は普通)、段数が多いと途中で止まりリズムを整えてからでないと上り下りが出来ないくらい。また、2段3段と飛ばしての上がり降りも、タイミングが合わないので、慎重に一段ずつ上がり下がりしないといけない。

 また、右足親指が若干感度が鈍いが、熱い冷たい痛いなどの感覚はある。

 運動に関しては全力疾走もジャンプも思いのままです。

 あの状況(再燃+軸策型)を考えると凄く回復したのでないかと思います。


 今、停滞している方も必ずよくなるとは断言できないですが、私のような例もあるので・・・・・すこしでも気持ちの救いになればと思います。

 14.入院中に困った事
  ○底知れぬ不安
   予後については誰しも思う事である上に患者数が絶対的に少ない病気なので情報
   が少ない。(神経難病=進行性⇒寝たきりという先入観があった)
  ○異常感覚(これは体験した人でないと分からないと思う)
   皮膚の下で『何か』が這っているような感じは特に嫌でした
   足などの位置感覚の『ズレ』
  ○痛み
   一般的に神経が欠落しているので感覚は無いように思われるが、これが結構な痛み
   があり、リハビリやベッド移動などの時に泣きたくなる事も何回かあった。
  ○排泄
   入院期間中の9割位はベッド上での排泄だったので、やはり恥ずかしい。
   それを若い看護師に処理してもらっている姿は恥ずかしい事この上なし。
  ○時間つぶし
   時間つぶしとは何とも贅沢な悩みだが体が動かないので何も出来ない。病院なので
   PCはもちろん携帯電話も使えない。本を読みたいが手が言うことを利かないので
   それもままならない。
   検査や診察などがある日はましだが土日祝日などは本当に困った。
   とは言え、この様な状況だったのでお見舞いも出来るだけ最小限にしてもらった。
   (特に会社の部下)

                   (平成1910月 記、平成201月 追記)
この闘病記は、J.J.様ご本人に転載のご意向を確認した上で、掲載しております。