闘病記(NAGANO様)

NAGANO氏〔発症時=平成18年3月、37歳、男性、会社経営〕



発症1週間前
 発症する1週間前に大雨の中ゴルフをする。午後のラウンドから少し体の調子がおかしいと思ったが、軽い風邪をひいた程度と思っていた。
 次の日、結膜炎のような症状になったので眼科に行く。結膜炎と言われ目薬をもらう
 次の日、微熱が出て体がだるいので近くの内科に行き点滴と薬をもらう
 そんな症状が23日続く。


発病前日
 朝起きると目が複視になっており、体も少しフラフラしていたが、どうしても抜けられない仕事があるため、仕事現場に行く。車を運転していきましたが、地獄のドライブでした。よく無事に帰れたと思います。


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 夜中呼吸が苦しく目が覚める。お腹の調子が悪く、フラフラしながらトイレに行き下痢になる。気がつくと上手く言葉が喋れない。一瞬脳がおかしいのかなと思い、福山市内にある○○記念病院救急に行く。結果的に誤診。疑問があったのでそのまま同市内管病院へ行く。担当してくれた先生が症状に疑問を持つ。呼吸が弱くなってきたので、後輩が勤務している倉敷中央病院へ行こうと早い対応をしてくれ、すぐ救急車で倉敷へ。担当医も一緒に同乗してくれ、とても有難かった。この頃すでに眼球麻痺により目が開きにくくなっていました。初めて救急車に乗ったが、スピードを出しているし体もフラフラ状態なのでとても乗り心地が悪く、気持ちが悪かった。でも、救急の方はとても親切で優しい言葉をかけてくれていた。1時間ぐらいで到着し、救急の門をくぐった瞬間色々な科の先生、看護婦達がおしよせてきて、すぐ検査するよう指示し、CT MRI検査。呼吸が苦しく窮屈で死にそうだった。その後運ばれている途中で意識がなくなった。髄液を取っていることや、神経テストしたことは多少覚えているぐらいです。


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 ここからは覚えてないので、妻から聞いたことをそのまま書きます。17日の夜いったん病棟に移ったが、呼吸困難がひどいのでICUに運ばれる。半分肺が停止していたらしい。呼吸器をつけられ、私自身は色々な夢か幻覚のようなものを色々見ていました。説明が難しいですが、とてもリアルな映像でした。肺に何か溜まっていたのかどうか分からないが、なんとか肺が動き出す。ICUの中はすごい場所らしい。たくさんの医療器具、年齢に関係なく生きるか死ぬかの瀬戸際の患者ばかり。妻も大変だったらしい。ICU患者専用の寝泊りする部屋があり、他の患者のご家族と色々話しをして泣きあったそうです。


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 ギラン・バレー症候群(フィッシャー) だと診断され、すぐ免疫グロブリンの投与が始まる。親族が見舞いに来たが、私の変わりはてた姿を見て涙を流したらしい。母はいまだにその時の話になると涙を流しています。医者が病気の説明をするが、あまり聞かない病気なのでより不安が増したよう。私自身は呼吸器が苦しく、寝ることも出来ない状態でしたが、どこかで寝たら死んでしまうという意識がありましたので、ICUにいる間ほとんど寝ていません。妻は医者から~こういう状態になると危ないという話を聞くたび涙が止まらなかったと話をしています。その状況下においてリスクを伝えるのも医者の仕事だから仕方ない。


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20日~27
 同じような状態が続き、呼吸が弱いので口につけてある呼吸器から、そろそろ喉を切開し新たに呼吸器をつけると言われたそうです。


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 急に呼吸が戻り始める。グロブリンの効果が強く現れてきたのかもしれません。医者からこの調子だと病棟に移っても大丈夫だと診断されたため、移動。その前に担当してくれた看護婦さんが洗髪してくれました。その後飲み込みが出来ないため鼻から管を通し、栄養補給のミルクを食事の代りに流していました。


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 自分が助かったことに気づき自然に涙が出てくる。目が開いてないし、何かの後遺症か分かりませんが、違う映像を見ていた。


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 全身麻痺の状態で寝たきりだったがリハビリ開始。理学療法140×2本。体のマッサージと軽く体を動かしていくこと。リハビリの先生達は若い方が多かったが、その熱意は感じることができた。正直辛かった。頭が重たく、熱が出る、体は動かない、目も開かない、顔面麻痺、トイレも自分で行けない、ほんと生き地獄だった。


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 はじめて入浴。若い看護婦さん2人で運んでもらい、寝たまま体を洗っていただき、洗髪。最高に気持ち良かった。目が開かないし、うまく喋れないのでお礼を上手く伝えることが出来なかった。


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 目が見えないと何かしら耳が良い。よく聞こえるということです。部屋の前に先生達がいる場所だったので話し声もよく聞こえた。夜中ある先生が私の症状の話をしているのが聞こえ、その内容からとても症状が悪いらしい。分かっていたが、とても悔しくその夜は涙が止まらなかった。その先生に悪気があったわけではないと思うが、患者のケアに関しては徹底的にするべきだと思う。


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10日~
 リハビリに作業療法と言語療法が加わる。13セットのリハビリだ。まだ食事を鼻管からミルクを通していただけだったので、相談しそろそろ食事を口から取る練習をしようと。最初はおかゆをさらにミキサーで砕いたものを取っていきました。飲み込みも上手く出来ない状態だったので、辛さと緊張感のせいでとても疲れる。食べると口からこぼれるし、アゴがとても疲れる。お年寄りの気持ちが良く分かった。


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 この頃リハビリをしたりした後、疲れのせいか微熱がよく出ていた。37度から385分ぐらい。熱冷まし、座薬、抗生物質点滴、血液検査、の繰り返し。嫌気がさして一生こんな状態なら死にたいと思った。まだ目開いてない。よく妻が車椅子で屋上や外に咲いている桜を見に連れて行ってくれた。手でまぶたを開けると複視であるが物は見える状態だったので。目にいいとブルーベリーの錠剤を飲んだり、教えてもらったマッサージをよくしたりしていました。


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 入院して1ヶ月ぐらい経つので転院の話がきました。しかし、この状態では無理なので、先生に頼みもう1ヶ月入院させてもらえるよう頼んだ。先生は気を使ってくれ、長野さんが納得するまで入院してもOKだと言ってくれた。


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 朝気がつくと天井が見える。鏡を見ると片目がパッチリと開いていた。もちろん複視のままで瞬きは出来ない。看護婦さん達が喜んでくれた。私は96階の神経内科に入院していたが、看護婦さん達には恵まれました。みんな最高のメンバーでした。


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 自分で自主トレを始めた。内容は部屋前の廊下をゆっくり歩くこと。もちろんふらふらしながらだが、病気に負けたくなかったし早く回復したいと思ったから。大好きな曲をウォークマンで聴きながら、いつかこの曲をカラオケで歌っている楽しい自分を想像しながらテンションを上げリハビリしていました。


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 部長の検診があり、回復はいいようだが、最悪顔の筋肉が戻らないと告知されました。軸索型らしいと。一気に谷に落とされました。笑えない、上手く喋れない自分を想像するとなんとも言えなかったですね。


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 次の朝もう片方の目も開いた。ひょっとして治るのではないかと思った。この時は医者の診断に対して、何くそ!まだはっきり分かっていない病気だし可能性は十分ある、と自分に言い聞かせました。


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 理学療法士と相談してリハビリメニューを変えた。足の回復は割と良いのでエアロバイク、腹筋、バランスボールなどを取り入れたメニュー。調子がいい時は病院の外を療法士の方と歩く。もちろん全てのメニューはあまり疲れないゆっくりしたペースです。朝、昼、夜の3回自分で顔のマッサージ、リハビリ3本、自主トレ(作業療法、理学 言語)、食事3回もリハビリみたいなものですから。自主トレをやりすぎたため疲れが出て倒れたことが一度あり、理学療法士に怒られたことがありました。これを退院する517日までやり続けました。


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26日~
 リハビリステーションは1階にあったのですが、この頃から一人で少しずつ歩いて行きました。体はまだ楽な状態ではありませんが、とにかく色々な痛みに耐えながら。まわりは無理をするなと言いますが、回復には少しの無理が必要だと認識していました。両目は開いていましたが、瞬きが出来ないので寝るときテープを貼ったりして乾きを防ぎました。個室にいたのですが、こっそり部屋の浴室でシャワーを浴びていました。腰掛けて、ゆっくりゆっくり洗っていきます。目が閉じられないので妻に競泳用のゴーグルを買ってきてもらい使用していました。


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 かなり上手く食事が出来るようになる。もちろんまだまだボロボロこぼしていましたし、疲れやすい状態です。幸いに食欲はありましたので、病院食の他に食べやすいヨーグルト、ゼリー等、早く元気になれとばかりにバクバク食べていました。


4月28
 看護婦からゴールデンウィーク中に1日自宅へ帰ってみたらどうかと言われました。自信がなかったけどトライしようと思い、54日ぐらいに1日帰ることを決めました。


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 理学療法士の杉先生(23歳女性)が、ゴールデンウィークで休みになるので、自主トレ用のメニューを私のために作って来てくれた。ここまで気を遣ってもらいとても嬉しかった。


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30日~52
 いただいたメニューをこなす日々。病院の近くにあるバーミヤン(中華デリ)で焼きめしと麻婆豆腐を買ってきてもらい病院食と一緒に食べた。久しぶりにコッテリしたものを口に入れ感無量だった。それを見て看護婦も笑っていました。


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 妻と一緒に車で自宅に帰った。1ヶ月半ぶりで何か落ち着かない。1時間車に乗っただけでかなり疲れが出てしまい、すぐ横になる。自宅の生活が意外にも難しい。病院が病人にとって過ごしやすい場所なのだということが分かった。退院しても家での生活がリハビリだと痛感。もちろん妻の運転です


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4日~16
 早く病院に帰りたく、予定より早く午前中に戻った。すでに病院のほうが落ち着く感じで何とも言えない。正直もう23ヶ月いたいと思った。
 リハビリは通常通りのメニューをこなしていました。退院の話があり、517日に退院することに決めました。その後は自宅近くの病院でリハビリを受けることも。嫌でしたがこれも通過点と思い決心しました。


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 退院
 看護婦一同が見送りをしてくれ、これからが大変だと思うが頑張ってという励ましの言葉をかけてくれました。そして自宅へ。


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20日~
 自宅近くの病院のリハビリステーションに行き、療法士の方と打合せをしました。それぞれ療法士の治療を受けましたが、倉敷中央病院のほうがはるかにレベル上だと分かりました。馬鹿にするとかではなく、大病院とローカルな病院とでは色々な面で差があります。自分にとって必要なものだけお世話になり、後は自主トレにしようと思いました。一番効果的だったのは低周波治療でした。私の顔面麻痺には最高の治療法です。1ヶ月の間にみるみるうちに顔の筋肉が戻っていきました。医者からは難しいと言われていたのに、努力が報われていること確信しました。


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月~
 体もまだ少しふらふら感がありましたが、良い感じで回復していました。友人が車で海に連れていってくれたり、会社の従業員達が遊びに来てくれたりと。私が会社にいない間、私の補佐だった者がしっかり仕事をしてくれ、守ってくれました。有り難く感謝でいっぱいです。7月後半ぐらいから目の複視も回復し、瞬きも少し出来るようになっていました。寝るときテープをしなくてもよくなり嬉しかった。まだ風呂に入る時ゴーグルは必要でした。


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 リハビリ継続。少しずつだけど順調。寝ている時、医者にキツイ言葉を言われた時の夢をよく見た。メンタル部分もまだまだ弱っているようだった。いつ職場復帰出来るのかという焦りもあったし。
 食べ方はとても良くなり、ゆっくり食べれば通常と変わらないぐらいになった。笑うこともかなり出来るようになり、地獄のリハビリ成果のおかげ。


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 リハビリ継続
 久しぶりに会社に連れて行ってもらった。突然行ったので皆びっくりしていた。色々話しを聞いたが、お客の中にも私のために泣いてくれる人もけっこういるらしく何か嬉しかった。12月から仕事復帰する目標を立てる。1129日に倉敷中央病院に予約を取り判断してもらおうと。


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 リハビリ継続 近くのジムに行きだし、自分のメニューをゆっくりこなす。病気の事情はインストラクターに説明済み
 中旬ぐらいに一度車の運転をしてみた。妻には反対されたが、この緊張感こそがリハビリだと。(真似しないでください)
 近距離なら全く問題ない!


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29 最終
 担当医から完治を言われる。本当によく頑張ったと。もう一つ嬉しかったことは、医者から帰りに96階に寄って看護婦達に会って帰ってほしいと。看護さん達がとても心配してくれたらしく、報告すると皆喜んでくれた。涙が出る。



 私の名前は
NAGANOと申します。38歳 男性。
 広島県福山市在住で、建設関係の会社を営んでおります。
 この病気になってからかなり人生観が変わりました。
 人に生かされているという意味が少し理解できたような気がします。人のことを悪く言ったり、恨んだり、妬んだりすることは絶対にしてはいけないと再認識しました。
 また仕事に関しては変化が大きく、以前は利益を出すことばかり重視していましたが、今は少しでも何かに貢献できて、ほんの少しでも利益が出ればいいと思うようになりました。
 自分の人生は一回だということ、この世に生を受けた時点で人には運命があるということなど。これから先の生き方についてもよく考えたりします。
 ギラン・バレー症候群で苦しんでいる方に伝えたいことは、当たり前のことになりますが、とにかくリハビリなど粘り強くおこなっていく。そしてまわりの人にも優しく接していくことも必要だと思います。要するにメンタルな部分、そう言動、行動することにより精神的強さが強化される。私の場合、妻や両親、友人、会社従業員のこと。自分ひとりで生きているわけではありません。自分が苦しいなら妻達も苦しいはずですから。



 頑張ってください! 必ず治る運命ですから!
 もし私でお役に立てること、たとえば近くにお住まいになっていたりして話を聞きたいなどありましたら、遠慮せず連絡してください。メールやお会いすることも出来ますので。
 私自身も色々な文献を見てきましたし、いまだ理学療法士の方々とも付き合いがありますので。私の入院していた倉敷中央病院もとても優秀な病院です。こちらでは、難しい病気で対処できない患者の方が身を寄せてくる病院のようです。とくに心臓外科は有名なようですよ。
 倉敷中央病院の理学療法士、言語療法士、96階神経内科先生、看護婦の皆様に深く感謝しております。もちろん一番の功労者は妻ですね。



私のリハビリについて
 書いてある内容よりも実際はハードだったと思います。
 いつものリハビリより少しハードなものがより効果的。
 自分で色々試行錯誤してみた結果、効果の高いリハビリを順にメニュー化していく方法がベターと思う。マニュアルに沿ったことばかりが良いとは言えない。



補足
 髄鞘型と軸索型の判断は難しいようです。治らないなら軸索型というような診断のような気がします。確かに年齢が若ければ若いほど治りはいいようですが、実際すべてがはっきりしていない部分が多いですね。私も顔の治りが悪いから軸索型かもしれないと言われましたが、完治しました。私の顔写真見たい方は言ってください!お送りいたします!人間のポテンシャルは想像以上に高いですよ!
 文書の中で抜けている部分も多々あると思いますがご容赦願います。


参考にしてください!
顔( 顔面麻痺など)
 ギラン・バレーで顔面麻痺になる方は少ないと思いますが、まれに私のようにフィッシャー症候群により顔面麻痺になる方へ
 理学療法士に教えてもらったフェイスマッサージ。顔のラインに沿って優しく指でなどっていく。
 風呂に入った時、少し熱めのタオルで顔を軽く押さえ温める。その後もマッサージ
 出来る限り喋る。(ぱぴぷぺぽを連続で言う)口を動かす。本を読む
 眼を片方ずつ開けたり閉じたりする練習。最初動かなくても粘り強く動く意識を持つ。
 疲れない程度にテレビを見る(持論)
 低周波治療機・・あまり良くないと言われることもありますが、私には効果があったようです。


体 からだ
 最初は全て麻痺状態で全く動かなかった。最初一番回復が良かったのは足でした。
 当たり前のようだが、出来る限り体を動かす。歩く
 軽い、少し重たいダンベルを交互にゆっくり上げ下ろし。
 バランスボールで必ずどこかにつかまりバランスを保つ練習。腹筋強化や全体にいい
 軽いスクワット。
 握力を鍛えるため、ボールや器具を使う。
 簡単なキャッチボール(短い距離で)
 エアロバイク( 安価のもので十分) 軽めの重さで短時間から開始。
 自宅階段をゆっくり昇降

 疲れてきたら休憩し無理しない。疲れると熱が出たりする方はその都度脈拍、体温計を測る。自己管理能力
 111セットでは駄目!
 ある程度まで回復しているならジムを利用する。インストラクターに事情を話しメニューを組んでもらうなど。

 これらのメニューは最初から行うものではありません。段階に合わせてください。

                            (平成19年6月記)


この闘病記は、「ギラン・バレー症候群のひろば」の管理人であった田丸務様を通し、NAGANO様ご本人に転載のご意向を確認した上で、掲載しております。