闘病記(京都のM様)

  京都のMさん〔発症時=平成20年11月、76歳、女性〕
        娘さんからの投稿

母(76歳)のギラン・バレー  3ヶ月間の入院記録
本文中(  )内は私、娘のひとりごとです。



もう半年以上も前から、右腕の痛みを訴えていたと思う。
2008年11月11日の夜から、痛みが激しくがまんをしていたが、13日にかかりつけの医者に行った。痛み止めの飲み薬と、シップをくれるだけだった。「年をとると、誰でもどこかしら痛くなったりするものだ」と。
(いつもそんな調子だったので、こちらも安心していた)
16日、日曜だったが、あまりの痛さに耐え切れず救急に行く。レントゲンを撮ったところ、肩の骨に少し変形がみられ、それが原因かもしれないので、明日もう一度精密検査をうけるようにと言われる。
しかし、あまりの激痛に痛み止めの注射をしてもらい、座薬をもらって帰った。痛みは治まらず。



入院
17日、あれこれ検査を受けている最中に湿疹が右肩から指先まで現れ、帯状疱疹と言われ、即入院。
その日から、22日にかけて右手の麻痺が始まり、やがて足や身体まで動かなくなってきた。
「こんなにしんどいなら、窓から飛び降りて死にたい」と、毎日思ったそうだ。
(足が立たなくてよかった。しかし、この間の記憶があまり無いらしい)



転院
11/22(6日目) 帯状疱疹で手足が麻痺するのはおかしいからと、神経内科のある病院に転院することになった。救急車で、担当の医師も付き添ってくださってありがたかった。
もう自分では身動きもならないので、オムツを当てられてしまった。
入院当時の病名は、帯状疱疹と急性散在性脳脊髄炎。推定される入院期間は2~3週間だった。
髄液検査、MRI等の後、ギラン・バレーと告げられる。(聞いたこともない病気。帰ってネットで調べ、このHPにたどり着き、むさぼるように体験談を読み続けた。そして、軽度の体験文ばかりを読み返し、自分を励ました)
免疫グロブリン点滴始まるが、症状はひどくなるばかりだった。
11/28(12日目) AM2:00病院より呼び出しがあった。
呼吸困難・意識不明になり、ICUに入り人工呼吸器を取り付けるという連絡。
(覚悟はしていたが、病院に着くまでの間、お葬式の段取りまで考えてしまった)
今まで、母が「もし私が病気になっても、管をいっぱいつけられたり、機械で生かされたりするのは断ってな。おむつも嫌やで。そんなんで生きるんやったら、死んだほうがましや」と口癖のように言ってたのが、今、まさに一番嫌な状態にされている。
呼びかけには反応があったが、まだ朦朧としている。
11/29 ICUの面会時間は、PM2:00~3:00と決まっていた。(毎日8~10時間病院に詰めて、坐れるのは往復の車の中だけ、という私のからだは、楽になった。けれど、母のつらさはますます強くなる)   
目を大きく開けて、左手がぴくぴく動いていた(痙攣していたのかも・・・)
11/30 文字盤を持っていく。左手人差し指を立てようとする。
12/1 昨日よりしんどいと言う。熱がある。
グロブリンの効果がまだ現れない。
12/2 痰が多い。文字盤で話すが、気ばかり急いでなかなか読み取れない。「もっとゆっくり」と言うとそっぽを向く。
12/3 「頭に何かがのっている」と言う。(看護師に何かをかぶせられた夢を見たらしい)
12/4 痰を引くのに、看護師を指名する。「親切だから」という。
(後日談、その看護師だけが夢でいじわるをしなかったらしい。)
12/5 今まで暑がってきたのに、初めて寒いと言い布団をかける。文字盤に夢中で
3:20追い返される。(50音の文字盤と、して欲しいことを絵にしたものと、2枚の紙を使っていたが、お互い初心者同士?で理解するまでが大変だった。)
12/6 暑いと布団を取る。水を摂れないので口が渇く。ガーゼで拭いてもらう。
12/7 「タクシーを呼んで、病院に帰りたい」と言う。「ここは病院やで、よく見て」と言うと、きょろきょろして「へえ~?」って感じ。
ここまで、母は夢と現実がごちゃまぜになっていたそうだ。看護師たちは母をあちこち連れ回し意地悪をし、担当のN医師や私まで母を無視して遊び呆けていたそうだ。
私は、面会に行くと「ママ来たよー」と言うのだが、「私を助けもしないで、何がママ来たようや!」と思っていたらしい。(私に対する不機嫌の理由が、やっと解明した)
12/8 気管切開手術をすることになった。母は何も話そうとしないし、顔も見てくれなかった。
(意識がはっきりしているのに、体が動かなくなるというのは、なんと残酷な病気でしょう!たくさんの機械につながれて苦しそうにしている母を見るのは、本当に辛かった。ICUには意識のない患者さんもいて、いっそ、朦朧としていてくれれば等、馬鹿なことも考えてしまった。)
12/9 夕方N医師より手術の説明あり。母は相変わらず無愛想。
12/10 夕方手術。2時の面会の時も元気がない。背中が痛いと言う。
手術後会いに行く。喉に機械がつながれている。(TVドラマなら、チャンネルを変えるところだ。恐ろしくて、かわいそうで、泣きそうになった)母は、しきりにあごを動かしている。自由になったあごの、運動だそうだ。
12/11 初めてベッドのまま、髪を洗ってもらった。レントゲンがきれいだった等、話す。
12/12 孫からの手紙を持っていく。嬉しそうに何度も見せてと言った。
12/13 ICU脱出。ナースコールも押せないし、声も出せないし、私は不安を訴えたが、監視カメラ付きの部屋に移るということで・・・
N医師によると、もう山は越えたそうだ。(ほんとうかなあ?)
ICUでしていたこと。顔や髪を温かいタオルで拭く。手足のマッサージ、ただし、強くすると痛いので撫でるという感じ。体位を変える。文字盤で話す。できるだけ楽しいニュースを伝える。それだけで、1時間はあっという間だった。
(後日談・タオルをゆすぐ水音がここち良かったそうだ)
12/14(28日目) 部屋に時計がなく、時間がわからず辛いというので、大きな大きな時計を持って行く。左手、わずかに動いた。
12/15 リハビリ開始。午前と午後に二人の先生が担当してくださる。少し曲げても痛がる。爪を切る。
12/16 昨日より左手、少し動く。
12/17 顔を剃る。「さっぱりした」と喜んだ。(だって、鼻の下にひげが・・)
昼だけ酸素5にして自力呼吸。
12/18 昨夜は呼吸器のリズムと母の呼吸が合わず、しんどい思いをしたそうだ。一晩中警告音が鳴りっぱなしで、眠れなかったそうだ。
N医師いわく、「お母さんが、機械に勝ちました」
昼夜酸素4.
12/19 酸素2。睡眠剤のため、朦朧としている。大きなナースコールを借りていたのだが、初めて押せた。少し安心。リハビリでベッドのふちに腰掛けた。(支えていないと倒れてくる)すごく疲れたそうだ。
12/20 呼吸器のモーター音のうるさい機械と、点滴スタンドを1つ撤収。部屋が広くなったし、静かになった。
12/21 夕べは久しぶりによく眠れたらしく、顔色がいい。手足もマッサージらしいマッサージ(少し強め)が出来るようになった。足の指の間も強く拭くともろもろ(垢?)が多く出てくる。湿った感じなので2~3時間コットンをはさむ。(めちゃくちゃ臭い!)
12/22 酸素1.足少し動く。頭が痒い。ドライシャンプーを2回する。(ドライシャンプーは2日に1回では効き目がないのかしら?)
12/23 ベッドでシャンプーしてもらう。ちゃんと洗ってもらうと、やはり気持ちがいい。
ベッドの背もたれにもたれて、歯磨きをしてもらう。
初めて、私が帰るとき寂しいといって泣いた。(心細いのに、よく今までがまんしたね)
12/24(38日目) 初車椅子。廊下の窓から見える景色の良い所に連れて行ってもらう。
TVのリモコンが押せそうなので、ベッド上の点滴用フックにリボンで吊るす。(ベッドの上は大きなナースコール、タオル、ティッシュなどで満席だったから。)
12/25 酸素ボンベなしで、リハ室へ行く。手を洗う。気持ちいいと言う。
便秘のため座薬をしてもらう。しかし気分が悪くなり、過呼吸になる。紙袋を口ではなくのどに当て、ゆっくり息をさせる。(「鼻から吸って口から出して」と看護師は言うが、喉に呼吸器つけて出来るの?)
12/26 昨日手を洗ったのが気持ち良かったと言うので、横になったまま、ベッドにビニールシートを敷き、洗面器に湯を入れ、片手ずつ、片足ずつ浸してあげることにした。「お風呂にはいってるみたい」とご満悦。温まったところで、マッサージ。顔もお湯で拭き、クリームをつけてマッサージをした。これらはお風呂にはいれるようになるまで、毎日した。(エステみたいと喜んだ。全身エステは高いよ(笑))
12/27 気分が悪そう。便秘がちだが、また座薬を入れられては困ると、一日中きばってる。
12/28 シャンプーしてもらう。少し気分が良くなった。普通のナースコールが押せるようになった。
12/29 口に出た痰を自分でティッシュで取れるようになった。右足、少し立てられる。
歯磨き、自分で出来た。車椅子で外へ出た。
12/30 両足立てられた。(ベッドで足を洗うのが楽になった。)
12/31 立膝、ほぼ完璧。(足のマッサージもやりやすくなった。)



年が明けた。
1/1 足を蹴り上げた。「食べたい」と、しきりに訴えるが、みんなに却下される。
1/2 パジャマのボタンを左手ではめられた。
昨日、黒豆を食べたいと言ったので、口でくちゃくちゃするぐらいはいいだろうと、10粒ほど持っていく。「飲んだらあかんで」と何度も言い聞かせ、1粒口に入れる。幸せそうな顔で、結局、全部『くちゃくちゃ』した。
1/3 水羊羹を昨日に続き『くちゃくちゃ』(ほんとに幸せそうな顔やなあ)
車椅子は、乗り移りに看護師ふたりがかりで大変だったが、今日は看護師さんと私でスムーズにのれた。初めて私が車椅子を押し散歩した。食べたいばかり言う。
1/4 栗の甘露煮を『くちゃくちゃ』。まだ、片付けてない時に看護師さん来る。どきっ!
私がシャンプーをしても良いとお許しが出たので、さっそく行く。その後散歩。
お疲れ様。
1/5(50日目) 平行棒につかまって歩いた。入院以来初めて立つ!
夕方、喉の象さん(痰を引くための長い器具)が取れた。嗄れ声だが、声が出た。
お茶のゼリーを飲み込んだ。
感動の一日だった。ふたりで泣いた。
1/6 食事始まる。いきなりおかゆ。しかもおかず付き。看護師が「どうぞ」とテーブルに置いていったが、だれも食べさせに来てくれない(私もいない)しかたないので母ひとりで、震える左手で食べたそうだ。
昼食は、おかゆ、サラダ、酢の物、肉団子。一応、軟食刻み食らしいが。
(うそでしょ?40日以上食べてないのに?しかも、気管切開して誤嚥が危険ってPCで調べたら書いてあったのに!)
しかし、おみごと!ほぼ完食。
ベッドをエアマットから、普通のマットに替えてもらう。リハビリで動きやすいからだそうだ。体位を変えるのも楽になった。
1/7 念願のアイスクリーム食べる。リハ・平行棒で今日は3往復。(毎日1往復ずつ増やすという、こだわりがあるらしい)
食事のリハビリ不要(当然!)と言うことで、声のリハビリ始まる。
1/8 車椅子はもう私ひとりでも移せるようになった。私とシャンプー。帰ってきたら、続いて声のリハビリがあった。息がもれるから疲れるらしい。
1/9 点滴、心電図の線がはずされた。もう重篤ではないからと、救急病棟から新館に移される。リハ・車椅子でトイレの練習。
1/10 土曜でリハビリは休み。私と歩こうと言っても意欲なし。車椅子で散歩する。(こういう日もあるのね)
1/11 右手上に90度挙げられた。握り寿司の差し入れを、一人前すべて平らげた。
リハ・トイレ、車椅子でトライするが、挫折。
1/12 午前に浣腸してもらったらしく、しんどそう。シャンプーして気を紛らわす。
1/13 母の部屋についているトイレは、車椅子が半分しか入れない。嫌がっていたポータブルトイレを、ついに部屋に持ち込まれる。「車椅子の移動も随分楽になったから、ポータブルトイレでやってみてください。ただし、ひとりではできないから看護師を呼んでくださいね」と。
1/14 ポータブルトイレには全く気がない。(部屋が臭くなるし、ウォシュレットじゃないから嫌だって)
リハビリが終わり、ベッドに横になったとたんに耳鼻科から迎えが来た。なにげにベッドの上に坐っている。(今までひとりで起き上がれなかったのに!)その場に居合わせた全員が呆気にとられた風だった。その後笑いで大騒ぎだった。
1/15 午前、歩行と声のリハ、午後トイレや立ち上がりのリハ。疲れるのか、かなり落ち込んでる。シャンプーで機嫌をとり、勇気づける。
喉を縫う。(これも落ち込みの原因?)
1/16 右腕の痛みはICUを出るあたりから強く、ずっと続いている。(これがなくなればといつも思う。せめて眠れればその間だけでも楽なのに。)
午後のリハで歩行器を使う。車椅子で自室のトイレにトライ、成功。(やったあ!)
1/17 尿管撤去。私と一緒にトイレ。終わって外に車椅子を取りに行っている間に、ふと振り返ると、立ちあがってトイレから出掛かっていた。自分が歩けないことを忘れていたらしい。
(こけなくて、よかった。自分で立つなと説教する)後で皆に報告して大笑いした。
1/18 トイレ、大も小も私と一緒に大成功。ズボンも自分で下ろせる(上げるのは無理)
1/19 平行棒どんどん増やし、パイプの小さな歩行器試す。しかし、右手に負担がかかるからと、却下。(あの小さな歩行器だとトイレに自分で入れそうなのに。)
シャツ、ズボンの着脱のリハ。左手でシャツの小さなボタンをはめられた。
1/20 タイヤ付きの歩行器で300メートルほど歩けた。
トイレ、ズボンを下ろすところから水を流し、手を洗うところまで全て自力で出来た。
1/21(66日目) 廊下の手すりを持って歩けた。トイレも小さい歩行器で、ひとりで行けた。(看護師さんに頼み込んで持ってきて貰った。後でリハの先生に叱られたが、後の祭り。結果よければ全て良しなのです)これでトイレの介助不要になった。
右手でバイバイできた。
1/22 N医師より退院に向けての話あり。介護保険や退院後の生活について(独居なので、早い退院はN医師にしてみれば不安らしい)
喉の抜糸。歩行器なしで歩行のリハ(もちろん成功!)シャンプー。
私が持っていく食事を問題なく食べられるので、きざみ食・軟食を普通食に変えてもらうことにした。
1/23 昨日、私が帰ってから、牛乳を自分で冷蔵庫から出して飲んだらしい。(今日、初めて歩いたとこやで。危ないなあ。注意する)
右手、顔まで届く。
1/24 二人で歩いて散歩。速い!
トイレは小さい歩行器で行くのだが、持ち上げて歩いているのを発見。(歩行器なしでええんとちゃう?)
夕方熱があるということで、氷枕をする。いつも暑がりの母が寒いと震えている。右は麻痺やむくみでいつも熱があるのに、うっかり右で計ったそうだ。だから本当は熱などなかったのに冷やして、寒かったそうだ。(歩行器といい、熱といい、いつも笑わせてくれる)
1/25 孫夫婦がお見舞いに来る。4人で散歩。右親指がすこし曲がる。
1/26 初シャワー(リハビリパンツ卒業)。リハでお箸を右手で持つ、お風呂の練習、杖で歩く練習(杖は難しいから嫌だと先生には言ったが~本当は、年寄りみたいだから嫌だったそうだ。十分なお年だと思いますが・・・)
1/27 ふたりで歩行器なしで喫茶に行き珈琲を飲む。帰りに部屋のドアまで見送ってくれた(帰りにくいなあ)介護保険申請。
看護学校の2年生の実習生が二人、母の面倒を見てくれることになった。
1/28 N医師より2月中旬をめどに退院との話。階段の練習。
1/29(74日目) 初風呂。実習生二人、看護師、そして母の4人でお風呂。(母だけ気持ちよさそうで、他の3人は汗だくで真っ赤な顔。)右手にシャワーをかけると、その時だけ痛みがやわらぐ。
1/30 退院に向けて母の家をチェックしに行く。一時帰宅や退院後について意見交換(母は自宅に帰ると言うし、私は心配だから、私の家に来いと言うし、ふたりの意見がぜんぜんかみ合わない。)
1/31 階段1階分上り下りする。外泊、来週末のお許しが出た。また意見交換(頑固者!)
2/1 階段、廊下を歩く。またまた意見交換(交換ばかりで咬み合わない)
2/2 外を歩く。リハで、車止めのブロックをまたいだ。はさみを使う。液体の飲み込みがうまくいかず、時々むせるので、とろみの粉末を使う(不味いらしい)
2/3 実習生が、母の右手の痛みを緩和するため知恵を絞り、アロマの足湯と右手を湯につける、というのを考えてきてくれた。部屋を暖めたため、母以外はみんな汗まみれになったが、母が気持ちよさそうだったので、大成功だった。(手を浸すために発泡スチロールの箱をスーパーに貰いに行ったり、アロマの種類をそろえたりと、実習生たちの努力には感謝です)
2/4 リハ・立ったまま遠くに手をのばす。下に落ちているものを拾う。
2/5 リハ・輪投げ、キャッチボール。うまく出来ると実習生からやんやの拍手。母は嬉しそう。
2/6 実習生終わり。かわいい手紙をもらった。
2/7(83日目) 外泊。まず母の家に帰り、トイレ、階段など試す。母が、寝室に掃除機をかける。ベッドやドレッサーを移動して掃除している。(凄い!)伸びた白髪を染めてあげた。
昼食に母が「にゅうめん」を作ってくれた。私は一切手出しをしなかったが成功!
おまけに、お箸で食べられた。
その後、私の家へ。風呂でうっかり風呂椅子に坐ってしまった。立ち上がれず大騒ぎだった。(N医師には内緒にしておいた)
2/8 午前中はふとんの中だったが、孫たちが、昼食にピザを持ってきた。
一緒に食べた後、買い物に行く。スーパーと、洋品店に行く。人とぶつからず、ふらつかず行けた。
洗濯たたみと、食器洗いを手伝ってくれた。夜8時に病院へ送っていく。
2/9 母は、二日間の外泊で退院の自信を持てたようだ。N医師は退院を月末にしましょうと言ったが、強引に14日にしてもらう。(私の家へ連れて帰るからと、説得した)
夕食より、左手用のスプーン・フォーク、滑り止めのついた食器等無し。普通にしてもらう。
2/10 リハ・自転車こぎ(自転車?乗ったことないのに?)
今週は、一年生の実習生がきた。足湯をしてもらう。
雑談の中で、「外国からの看護師が最近日本にも入って来るね」と言うと、母が「ICUにいて、いじめられた」と言う。看護師が「この病院にはまだ居ませんよ」と言ったことから、母が夢を現実だと思い違いしていたことに気付いた。確かにエチゾティックな顔立ちの看護師さんだったが、彼女はベテランで、良く気のつく看護師さんだそうで・・・(本当にごめんなさい)またみんなで大笑い。
2/11 二人で外を散歩。今までのこと、これからのことを話す。
2/12 実習生達とお風呂。私は楽をさせてもらった。
右手、ほぼ上まで上がった。
2/13 救急病棟でお世話になった看護師さんに、退院の挨拶に行く。服を着て、少し化粧をして行ったので、わからなかった人もいたぐらいだった。喉の切開跡を見て「思い出した」と笑う人もあった。和やかに挨拶ができて良かった。(こんな日が、本当に来たのだ!)
リハビリも今日でおしまい!
2/14(90日目) 退院。朝、病室に迎えに行くと、もう、ごみひとつないほど、きれいに荷造りが出来ていた。
後はナースステーションに挨拶するだけ。みんなが口々に「がんばりすぎたらあかんよ」と言って送り出してくれた。(ありがとう、みなさん!)


長い文になりました。感情を抑えて事実だけを書くつもりで書き始めました。
けれど、当時を思い出すとまだまだ辛いです。
退院してもう1ヶ月近く経ちました。
医師と約束したにもかかわらず、3泊しただけで、自分の家に帰ってしまいました。



今の症状
今でも、足先のむくみと痺れ(歩行や立ち上がりが困難)、右腕の強い痛み(ギラン・バレーによるものか、帯状疱疹によるものかよくわかりませんが、とりあえず、飲み薬を続けています。)右手の指はほとんど曲がらず、むくみと痺れがあります。声帯に麻痺があるため、ひどいしゃがれ声です。
それでも、出来ることも少しずつ増えてきて、退院2週間目にはお風呂も自分ではいれるようになり、私は買い物を手伝うぐらいで、母は不自由さを抱えながらも、立派に自立しています。介護保険も認定される頃には、不要になっているかもしれません。
母は「苦しかった時や、リハで辛かった時は、ICUになんか入れずに、あのまま死なせてくれたらと何度思ったかしれない。76歳やったら、もう十分やろ?」と言いました。(そうかもしれません。でもあの時はとにかく、生きていて欲しかったのです)
母はこうも言いました。「私が、〇〇ができるようになったと言ったときのSちゃん(私の名)の嬉しそうな顔を見たら、また明日、何か出来たって報告して、喜ぶ顔が見たいから頑張れたんやで」(ほんとによく頑張りました。その気力には脱帽です)
闘病中は毎日「治る病気だから」「この病気で死ぬ人はいないそうだから」と、母と自分を励まし続けました。
76歳という年齢で、首から下が全く動かず、2度のグロブリン、気管切開。
担当のN医師からは「ギラン・バレーの中でも重症です」と告げられてからは、歩いて帰れるようになるなんて、夢のまた夢でした。母のがんばりと、支えてくださった病院の皆さんのおかげです。(いったい、何人の人の手で母は生かされてきたのでしょう!)
今後は、母が「あの時生かせてくれて良かった」と思えるような人生を送って欲しいと願っています。(同意書にサインした責任上(?)出来るだけサポートするからね)



私が 投稿文を読んで勇気づけられたように、この拙い文が誰かの役に立つことができるならば幸いです。


                      (平成21年3月記)



この闘病記は、「ギラン・バレー症候群のひろば」の管理人であった田丸務様を通し、京都のM様ご本人に転載のご意向を確認した上で、掲載しております。