闘病記(Y.N.様)

Y.N.さん 〔発症時=平成19年3月、44歳、女性、主婦〕



 この「闘病記」は、妻がビッカーシュタッフ脳幹脳炎(ビッカースタッフ脳幹脳炎)を患い、その闘病記を、夫である私が書き記したものです。


3/18
(日)
妻、風邪気味とのことで一日横になる。
夕食を作るのも面倒で、出来合いのもので済ませる。

3/19
(月)
妻より私の仕事場に夕方5時ごろ電話有り。
「風邪の症状でしんどい。インフルエンザかもしれない。
一人ではいけないので病院に連れて行ってほしい」
夕方5時30分に地元のN医院(内科)に受診にいく。
「インフルエンザの兆候は今のところない。翌朝までに熱が出たら、再度来るように」とのこと。
その夜、妻は食欲無し。

3/20
(火)
未明(午前3時)、トイレに行ったとき「物が二重に見える」とうったえる。
朝一番(8時45分)にN医院にいく。
この段階で物が二重に見える状態は変わらず、体もきつそうで一人で歩けず。
私の腕につかまってなんとか歩く。
車の中でもぐったり目をつむったまま。
私も妻の状態がただ事ではないような気がしてくる。
N医院では、いすに座り頭を私の肩に乗せたまま。
看護師さんが見かねて、順番を優先して一番目に見てもらうことに。
(それくらい容態が悪そうに見えた)
N先生に診ていただき、物が二重に見えることを伝えると、
問診も早々に「K病院に紹介状を書きますので、今からすぐに行ってください」
といわれる。(K病院は地元の総合病院)
この段階で、私の午前中の仕事はキャンセルだなと思いつつ、部下にその旨メールしながら車でK病院に。
(この段階ではその程度に考えていた。まさかこれから長い入院生活が始まるなど考えてもみなかった)
9時30分到着。
この段階でもう一人では歩けず、待合場所の椅子にうずくまる状態。
受付の方が車椅子を持ってきていただき、妻はこれ以後病気が改善されるまで自立での歩行はできなくなった。

はじめに眼科を受診。基本的な検査を受ける。
次に内科で受診してもらう。
容態から見て神経内科ではとのことで、当日おられた先生に診ていただく。

この段階の診断では、風邪か疲れによる不調ではとのことで、帰宅を勧められる。
妻が入院を希望したので伝えると、先生も了解され、とりあえず一晩の入院となる。
私は夜6時ごろに帰宅。
今から思うと、妻は自分の体の不調をただ事ではないと感じていたのだろう。

3/21
(祝)
仕事があり午後4時ごろ病院に行く。
昨日連絡していたので義母(妻の母)が朝から来てくれていた。
義母に話を聞くと、朝に比べて容態が悪化しているという。
それも、短時間でどんどん悪くなっているとのこと。
たしかにぐったりして、言葉がうまく話せないようになっていた。
体も動かしにくいようだ。
明らかに容態が悪いので、主治医の先生を呼ぶ。
主治医が内科なので、神経内科の先生を伴って(昨日とは違うK先生。以後この方が主治医となる)病室に来られる。
目の状態、顔の表情、足の脚気のような検査、筋肉の動きなどを検査され、さらに検査が必要とのことで、すぐにMRIと、髄液採取をする。
しばらく病室で待つ。1時間後に神経内科のK先生が「ご主人だけおいでください」と、ナースセンターに呼ばれる。(午後8時頃)
義母の不安そうな視線を背に病室を出て、ナースセンターへ。
主治医、神経内科のK先生、看護師さんと私が、ナースセンターの隅で、MRIの画像を見ながら座る。
緊張して話を聞く。
まず第一声で
「深刻な病気かもしれません。すぐに治る事も難しいです」といわれ、
白い紙に、妻の病状、検査の内容と、先生の所見を書かれる。
「この場ではっきり特定できませんが、ビッカーシュタッフ(ビッカースタッフ)の疑いが非常に強いです」といわれる。
(メモにはギラン・バレー・ミラーフィシャーの記入もありましたが)
治療方法として、
免疫グロブリンと、ステロイド投与の投与をすぐにでも開始したい。
病名が確定してからでは治療開始までの時間がかかりすぎる。
との話があり、私は治療開始を了承する。
免疫グロブリンは合計40
一日10本を4日間投与するというもの。
恐る恐る「生命の危険は」と聴くと、「100%大丈夫だとはいえません」といわれる。
内心すごいショックを受けていたが、平静を装う努力をしつつ(どれだけできたか)、話を聞いていく。
病室で待つ義母にどう言おうか。本人にはどう伝えようか。
とりあえず病室に戻り治療方針が決まったこと。
時間はかかるかもしれないが治る病気である。などと、説明する。
その夜から治療開始。
血清治療には親族の了承のサインがいるとのことで、私がサインをする。
この日は義母が泊まってくれる。

3/22
(木)
自宅のパソコンでギラン・バレー症候群の病状を検索してみる。
ギラン・バレー症候群の記述は比較的多いが、ビッカーの記述は少ない。
ネット上では、病気のつらさ、症例の少なさによる情報不足のための苛立ち、それでも前向きにインターネットの情報には、闘病されている方々、そして病気を克服して完治された方々の記述があった。
それらを読んで、勇気付けられる。
昼前に病院へ行き、妻の顔を見る。病状はよくなっていない。
言葉もろれつが回っていないのでよく聞き取れない。
つらさと、いとおしさが心にあふれてくる。
昨日より悪くなっているように思える。
先々への不安と戸惑い、妻の入院による私自身の日常の変化。
自分にも言い聞かせるように、妻を励ます。
免疫グロブリンは2日目。同時に鉄分補給の点滴も行う。
だいたい2時間おきに看護師さんが来られ点滴を確認される。
妻はぐったりと寝たまま。
寝返りが打てないことがきつそうだ。
この日は私が病院に泊まる。(以後、4月21日の退院まで義母か私か息子のいずれかが泊まるようにする)

3/23
(金)
朝一番にK先生の診察。
「言葉はやや進行している。筋肉・目の動き・首筋の張りは少し改善されている」と。
昨日37.4度あった熱は今日はなし。

私は日常の変化に戸惑う。
我が家には、高校3年生の長男と、犬(トイプードル)がいる。
妻の入院と共に私が主婦役をこなすことになる。
仕事は小さな会社を経営しているので、社員に今回の事情を説明し、プライベートで動ける時間を増やすことにする。
(勤めていたら、もっと時間のやりくりに苦労したと思う)
犬の散歩、朝夕の食事の準備と片付け。掃除に洗濯。
病院への、日に2回の見舞い。2日に1度は泊り込み。
(義母が交代でとまってくれたのは本当に助かった。義母もこの時期はつらかったろうと思うが、気丈にふるまってくれたことに感謝している)
そして仕事。空いた時間は会社に行き、業務をこなす。
そんな日々が当分続くことになる。
急いで病院に行く途中、原付バイクで速度違反で切符を切られる。泣き面に蜂とはこのこと。
肉体的なつらさより、妻の病気の不安と、妻が家に居ないことによる「日常」がいきなり変わったことによる精神的なつらさがこたえた。
独協医科大学に検査依頼。来週中ごろに返事有る予定。陽性なら病名は確定して今後の治療がしやすくなるのだが。

3/25
(日)
少し妻の話が分かりやすくなる。(少しだけれど)
妻からメールが来た。びっくりした。たどたどしいながら指先が使えるようになったのか。

免疫グロブリンの投与は今日で終わり。
容態は改善されてきているようだ。

3/26
(月)
手足のしびれは相変わらず続くようだ。
会話はかなり出来るようになる。
点滴の液漏れで、腕がはれ上がる。
点滴の場所を変える。
妻は血管が細く注射針をさしにくい体質のようだ。

3/27
(火)
目の奥が相変わらず痛いという。
妻は病気のこと、これからのことが不安で、夜、目がさえて眠れないと訴える。
軽い睡眠薬をいただき眠るようにする。
以後眠れない夜は、睡眠薬を服用する。
幻聴も続いている。
「ゴー」という音。誰かが病室内で話しているような声。
私がいても、他に誰かいるような声が聞こえるという。
少し話せるようになってきたので、回診時に妻が主治医のK先生に病気の説明を求めたようだ。
お忙しいにもかかわらず、十分時間を割いて説明してくださったようだ。

3/28
(水)
本日よりベッドにてリハビリの開始。
指先や腕、足などをマッサージしたり曲げたり伸ばしたり。
K先生が私と面談。
今後の治療方針やリハビリのこと。入院費や医療免除の申請のことなど。
私の父が見舞いに来てくれる。
父は妻の話す言葉が理解できないようだ。
私が通訳するようにして会話をする。
妻の容態は父が思っていたより大分悪く写ったようだった。

3/29
(木)
独協医科大学より、「陽性」のFAXが病院に届く。
これで、「ビッカーシュタッフ脳幹脳炎」であることが確定的になる。
K先生は、いち早く病名を予測できたこと、それが正確であったことで喜ばれていた。
私にとっても病名が分かったことはありがたいことだった。
いち早く免疫グロブリンの治療を開始したことも、こうして早期によくなっていることの大きな原因だと思う。
このあたりから食事が出されるようになる。

3/30
(金)
妻の話すことが、ほとんど理解できるようになる。
ベッドの上で自分で寝返りが打てるようになる。

4/4
(水)
外では桜が満開となる。病院の付近でも満開だ。
妻は今日、点滴と尿管が取れる。だいぶ動きやすくなったようだ。
この日は私が泊まったが、夜12時ごろまで話をする。
話すこともリハビリになると思い、疲れない範囲で妻が話すのを聞くようにする。

4/6
(金)
日に日に妻は、話す言葉が滑らかになってきた。
自分でもそれが実感できるみたいだ。
自分でベッドから自力で起き上がって、車椅子でトイレにもいけるようになった。

4/9
(月)
妻がかわいがっている犬と病院の玄関で対面。
犬は何となく他人行儀な感じだが、
妻は犬を抱きしめて、「早く退院しなくちゃ」と前向きに考えられるようになっていた。
しかし、ここ数日はひと頃の回復状況のスピードからやや緩やかな回復のペースになっていて、
妻はあせりと不安にさいなまれ、落ち込むことも多かった。
いつもならあまり言わない不満をぶつけてくることもあった。
こちらも感情的になり、口論になることもあった。
私は「もっと大らかに受け止めないと」と、あとから反省するのだが。

4/10
(火)
今日見舞いにいくと、妻は歩けるようになっていた。
何かにつかまりながらだが、しっかり歩いている。
目の方はまだ二重にみえるようだ。

4/12
(木)
夕方初めて歩いて、二人で病院の外を散歩してみる。
距離にして150mくらい歩いたかな。
妻にとって久しぶりの外の空気。

4/13
(金)
妻の友人が二人見舞いに来てくれる。
3時間ほどおられた。女性三人のすごくにぎやかな会話。
色々と話をしたようだが、妻もだいぶん体力がついたものだ。
けれど友人が帰られたあとは、ぐったりしていた。
まだ早口で話されると、話の内容が十分に理解できないようだ。

4/15
(日)
一時的に自宅へ帰る。
午後1時から4時ぐらい。
階段は昇る時より降りる時のほうがむずかしいようだ。
久々の外出と言う事で、病院に帰ってからは疲れが出たようだ。

4/16
(月)
試験的にだが、外泊の許可が出る。
一晩家で泊まって、調子がよければそのまま退院するということになっていた。
妻もそのつもりで張り切って家に帰ったのだが、一晩泊まってみてやはり疲れたようで、相談の上今週いっぱいは入院することにする。

4/17
(火)
髄液の検査のため背中から注射による採取。
妻は痛いので、できるだけしたくないといっていたのだが、K先生の「病状の改善状況が判断できないし、これは必要なことです」との意見によりしぶしぶ受ける。
結果は良好とのことで、3/21に検査した結果から劇的に改善されているとのこと。

4/18
(水)
病室で雑談をしていたら「人種差別」という単語が出てきて、
妻は「ジンシュシャベツ」としか発音できないことに気がついた。
「さ行」がうまく発音できないようだ。
まだ顔面の神経機能が完治していないのだろう。
でも、そのことで二人で笑い合えるくらい、他の症状は改善されてきたことが実感できる。

4/21
(土)
退院。
長かった入院生活も今日で終わり。
家に帰ってもしばらくは、大変だろうけどなにはともあれ嬉しかった。
これからは1週間に1度、リハビリに訪れることになる。
リハビリは歩行と会話が中心。

5/23
(水)
主治医のK先生の診察の日。
主に手足筋肉の動きや、顔の筋肉の機能、目の動きなどを診ていただき、
「もうこれなら、これからは来なくて結構ですよ」と、完治したことを言われる。
まだ、見る角度により、二重に見える部分があったり、視力が以前より少し悪く(近視)なっているが、それも時間と共に改善されるでしょう、とのこと。
そして、「劇的な速さで、治られましたね。入院された初めの頃からは考えられないほど、短期間でよくなられましたね」といわれる。
K先生も、初期の段階で病名を推測し、迅速に治療を開始できたことに、誇らしく満足げな表情でおられるのを感じた。



 今回の入院で感じたことは、お医者様と看護師様の献身的なお仕事振りには感服したということ。
 K先生は非番の日も状況により見に来てくださり、看護師様は入院中に妻の悩みまで良く聞いていただいた。


 今、この病気を発症してから6ヶ月が過ぎた。
 梅雨が明けたころには、ほぼ二重に見えていた症状は治まり、車の運転も出来るようになった。
 日常的なことはまったく支障なく行える。

 病気になる前と比べて、気になることといえば、
○不眠症ぎみなこと。(ひどい時は病院で頂いた薬を服用)
○疲れが出やすい。(繁華街や長時間の買物は辛そうである)
などがある。
 これも時間と共に元に戻っていくように感じるが、今現在も続いていることである。


 今回のビッカーシュタッフという病気は、私たち夫婦(そして家族・親族)にとって、晴天の霹靂とも言える突然の出来事でした。
 そしてその病状や、情報の少なさなどにより本人も周りの者も、ものすごい不安にかられたものでした。

 幸運といえることは、
①地元の内科医の先生が、すぐに紹介状を書いていただき、大きい病院で診察できたこと。
②入院二日目で、病状が悪化したとき、神経内科の先生に診ていただけたこと。
 (その先生が、知識としてビッカーシュタッフの情報をお持ちだったこと)
 ※実はこの日、K先生は非番でしたが、たまたま近くにおられたようで、すぐに駆けつけて
 いただいたのです。
③治療開始を早期にできたこと。
④妻が病気のときも、前向きに「治りたい」という気持ちを強く持ち、努力したこと。
⑤インターネットでのそれぞれの方々の「闘病記」を拝見し勇気付けられたこと。
等があげられます。


 また、入院中も私たち家族と本人(妻)との間で、衝突があったことも事実です。
 本人でないと分からない、病気のつらさや将来に対する不安。
 妻は夜になるとその不安感で寝られなくなり、軽い睡眠薬を飲んで夜を過したこと。
 家族の方は日常の生活が一変し、仕事と家事、看病が私の背にかかってきたことによるストレス。(息子も義母もつらかったと思います)
 そんなお互いの気持ちを、たいていは分り合えて相手に感謝や思いやりを持てたのですが、何かの拍子に言い争うことが何度かありました。
 どちらも相手を傷つけようと思っていなかったのに、そんなふうになってしまうことがあったのです。

 病気になることは不幸なことですが、前向きに考えて、できることを無理せずやってゆくことが大事だと思います。
 私の妻の例で申しますと、ビッカーシュタッフは治ります。後遺症も残りません。
 早期治療という運にも恵まれましたが、入院から1ヶ月で退院ができ、家事などの日常の生活には退院後まもなく戻れました。
 (入院当初、K先生は退院までには6ヶ月ほどかかるかもしれないとおっしゃっていました。)
 病状が良くなるときは日に日によくなりますが、それがとまるような時期もあります。
 どうしても一喜一憂してしまいますが、長い目で見て病気と向き合うことも大事かと思います。

 病気には、個人差がありますので、もっと早期に治る人、病気が長引く人もおられると思います。
 しかし、希望を持って毎日を過されることが大事だと思います。



 読み返してみまして、舌たらずな表現や伝えきれていないことに歯がゆさを感じます。
 つたない文章で申し訳ないのですが、ビッカーシュタッフの症例が少ないので、少しでもこの病気にかかられた方(ご本人やご家族)の参考になればと思い投稿させていただきました。

                      (平成19年10月記)


この闘病記は、「ギラン・バレー症候群のひろば」の管理人であった田丸務様を通し、Y.N.様ご本人に転載のご意向を確認した上で、掲載しております。