闘病記(前崎貴美様)

前崎貴美氏〔発症日=平成17年4月、38歳、男性、公務員〕



これは私の体験談です。(1)発症→(2)入院→(3)転院→(4)退院→(5)その後、と5つの段落に分け、それぞれに起こった・思った主な事柄を簡単にまとめました。最後に私から現在治療中の方々(私もリハビリ中ですが)への体験に基づく応援メッセージもありますので、ご一読ください。

 当然ご自分ではパソコンを操作することが出来ない方も多いと思われますので、家族の方はぜひ印刷して読み聞かせてやってください。また、くれぐれも家族の方は気持ちをしっかり持って、ご自身の体に気を付けて二次災害は絶対に避けるように心がけてください。また、明るく本人と接触してやってください。


(1)発症
 もう何年も一人暮らししていましたが以前は食事だけ実家に帰って食べていました。それが仕事で残業が続いていたせいか、いつの頃からか食事が不規則になり外食が主流になっていきました。

 当然体も太り、更に様々なストレスを発散させるため、その残業の後深夜まで酒を飲むことも多くなり、今思うと体に相当負担をかけていたと反省しています。

 発症日1週間前、それは単なる酒による下痢だと最初は思っていましたが、なんだか変な症状だったんです。便が、ゆるいわけでもなく、硬いわけでもなく、出そうで出ない、何とも言いようの無い不快な下痢でした。

 発症日前日・前々日、それまでの下痢を風邪と思っていた矢先に高熱が出て、やはりこれは年に1回ひくいつもの風邪だろうと確信しました。ちょうど土日の休みとあっていつものように汗をかいて安静にし月曜にでも医者へ行こうと思いました。

 そして月曜日(発症日)朝、熱を測ると平熱に下がっていましたので、仕事もあることから出勤しようと決め、仕度を始めましたが、其の時、なんとなく舌先がしびれる感覚を覚え、少し話しづらいと感じていました。これが一番最初の症状だったんです。

 いつもの朝は自宅で食事をせず、某有名チェーン店で朝定食を注文するのが日課となっていましたので、この日も同様に注文し食べる段階になって、なんと箸が持てない!事に気が付きスプーンをもらったのです。『何やこれは?』と思いましたが、其の時は、それまでの下痢といい高熱といい完全に風邪と思い込んでいましたので、手っ取り早く仕事を済ませ、早退してかかりつけの医者に行けばいいや!と思うだけだったんです。

 役場に到着していざ2階にある自分の職場に行こうとした時、足が上らない!なんと階段が昇れなかったんです。最初の1歩を踏み外してしまい、脛を階段で強打し怪我してしまいました。今でも跡が残っています。

 先輩に肩をかりてようやく昇りきって席に着いて資料を作り、さあ!帰るぞ!という時に、足に力が入らない!感覚を覚え、同僚に頼んで自動車まで連れていってもらいました。其の時は自力で運転する気だったんです。

 ところが、自動車(1BOXカー)に乗り込めないんです!何とか乗り込めればと努力しているところを上司が見るに見かねてその同僚たちに医者まで送るよう指示していただき、助手席に乗って医者に駆けつけました。

 そこで、先生に、「これは、風邪ではない。脳疾患かまたは末梢神経の病気だ!私は脳だと思う!」と言われ、昼前にもかかわらず総合病院である市民病院に電話で連絡していただきその同僚に引き続き運んでもらいました。このときには既に立てない状況まで進行していました。たった半日のうちの出来事です。

 市民病院に到着して、先の先生に『脳だと思う』なんて言われたこともあり、真っ先に脳のCTスキャン並びにMRIを撮り早急に診断してもらいましたが、「脳ではない!」と診断されました。

 一度はその言葉で安堵しましたが、今度は末梢神経の病気?という自分が今まで聞いたことも考えたことも無いような未知の病気に掛かっているという現実に、今まで以上に大きな不安感を覚えました。『どうなってしまうんだろう?』と。


(2)入院
 その日、昼過ぎにはもう全身が麻痺してしまいました。顎の下がかゆくても腕が上らないんです!

 しかも単なる入院かと思ったら、ICU(集中治療室)だなんて信じられない!と思いました。気管や心臓に異常が出てもすぐ対処できるようにとのことでした。その後すぐに主治医からの説明がありました。

 主治医:「いろいろ考えられる(病名)中で、最も治療に時間・労力が掛かるものから手を尽くします。ギラン・バレー症候群が一番厄介で疑わしいのでこの治療から始めます。ついては血液製剤を5日間投与するか、または血液透析しか手がないのですが、どちらをしますか?」
私  :「どちらが効き目があるんですか?」
主治医:「効果はほぼ同様です。」
私  :「透析は疲れますよね!だったら血液製剤でお願いします。」

 この日から即、血液製剤の投与が始まりました。1本100mlの透明な点滴を1日6本(1本1時間所要)を5日間、計3?の投与です。

 また、ギラン・バレー症候群は自己免疫疾患でごく希な病気であり、2週間から4週間で免疫生成が終了しその後はリハビリを行うことしか治療方法が無いことの説明を受けました。なんとか2週間で止まって欲しいと神に祈りました。

 私の場合は顔にも麻痺が認められ、話も飲み込みもまともに出来ない状態になってしまい、食事はご法度でした。点滴による栄養摂取のみで、かなり痩せたことでしょう。幸いというか不思議なことにベットサイドに座ることは出来ましたので、寝てばかりではなく座らせてもらってもいました。

 しばらくして、口から物を食べる試みが行われ、ゼリーが食べられず唯一プリンだけが食べられました。このときから3食プリンだけ!という食事が始まりました。

 祈りが通じたのか2週間で進行が収まり、一般病棟に移りました。まずは4人部屋で1週間過ごしてから個室に移動しました。このときには、なんとまばたきが出来ない!状態にまでなっていたのです。白目をむいて寝ていたわけですね。

 個室に移ってからは独りで考える時間が増え、この状況とこれからに対する不安や絶望感に苛まれ、いっそ死んでしまいたいとも考えてしまいました。

 それでも最も心配な3点について先生に質問してみました。まずは『再発の可能性は?』です。この病気は10万人に1人という極稀な難病で、再発の可能性はもう一度その確立に戻るということです。2つ目は『性機能に影響はあるんですか?』私はまだ独身でしたので心配しましたが、その影響はまったく無いということでした。3つ目は『完治するんですか?』です。これが一番関心のあるところですが、80%の確立で完治するが20%は何らかの後遺症が残る可能性があるということでした。率直に先生の感想を聞かせてもらったところ、私の場合はその20%の部類だと聞き、さらに心が沈んでいくのが自分でわかりました。毎日のように独りで泣いていました。

 次第にプリン以外のものも食べられるようになり、ペースト食、刻み、荒刻みと段階的にアップをしていきましたが、荒刻みにしてのどが通らないのを無理に飲み込んでしまい、気管に詰まりこそしませんでしたが飲み込めずにえずくこともありました。私はお粥が嫌いですので、早くご飯が食べたいと焦ってしまったんですね。

 こんな動かない私のために職場の方、親戚の者など様々な方に見舞いに来ていただきました。皆さんに励まされて、本当にすごく元気が出てきました。しかし、個室で突然に悲しい・不安感が襲ってくる現象は収まることはありませんでした。(うつ)”状態だったのかもしれませんね。

 発症から1ヵ月半でようやく血液中の栄養状況が上向いてきましたので、そろそろこの病院での治療を終了し、リハビリ専門の病院に転院することを勧められました。自分も最初からそう考えていましたので、まずは家族による家族受診を受けることとなりました。個室を希望し、2~3週間は空き待ちとなるはずだったんですが、なんと!3日後に転院してください!と電話がかかってきたんです。この時から、この後に続く『ラッキー!』が始まったのです。


(3)転院

 運び込まれた途端に車椅子に乗せられましたが、自分で乗り降りすることや動かすことを禁止されました。この病気はあまり動かない筋肉を無理に動かすと筋肉組織が崩壊してしまい、神経が再生されても筋肉自身が傷ついてしまうと治りがすこぶる遅くなるからということです。

 こちらの主治医の説明では、「前の病院での検査結果等をみてもかなり重症で、この病院の入院期間中には立って歩くことはできないかもしれません。とにかく徐々にしか回復しませんので、数年と考えて焦らずじっくりリハビリを通じて治療していくしかありません。」と言われ、思わず大泣きしてしまいました。ことあるごとに徐々に!と言う言葉が先生から連発されますので、「徐々に!という言葉を言わないでください!」などと主治医に怒号してしまったくらいでした。

 入院中は話の出来る他の患者さんたちとコミュニケーションをとり、出来る限り心を和ませることに心がけました。

 リハビリの内容は、最初のころは他愛も無い動作の反復で、寝返りだとか、腕を上に上げる動作と、足首が曲がらなくなっていましたので、アキレス腱を伸ばすストレチを重点に行われました。

 後に理学・作業それぞれに担当された療法士さんたちから聞いた話ですが、入院当初は想像以上に動かない私を見て、本当にどう訓練を進めていいのか相当悩んで苦労されたそうです。それだけ動かなかったと言うわけですね。

 発症3ヶ月目で身体障害者手帳の申請を行いました。年齢が40歳に到達していない私のような者は、この手帳が無いと介護保険が使えないので後々苦労するというのです。しかし自分の中ではやはりまだ病気である事実が自分自身で受け入れられておらず、心の中で苦悩しました。身体障害者手帳は四肢機能全廃による1級認定!

 この頃食堂で食事を集団で摂っているうち、飲み込み検査では何の問題も無いのに実際食べるとのどを詰まらせるという奇妙な現象が起こっている年配の女性と出会い、その原因が精神的なものであると先生から言われていると聞き、私も応援して楽しくおしゃべりしながら食事を摂れば食べられるんではないかと一生懸命になりました。すると、なんだか励ましている間に、自分自身も励まされていくのに気づいたんです。さらにある患者さんに「泣いてても、笑っていても同じ時間、同じ人生を送らねばならん。同じ時間なら笑っていなければ損やないか!」と再三慰められ、なんだか前向きに考えなきゃこの先、生きていかれないと考えるようになっていきました。また体も当初主治医からも説明があったとおり徐々に動くようになっていき、これなら何とかなるんじゃないか!と思うようになったことで前向きに拍車が掛かったように思います。これが二度目のラッキー!です。

 次第に本のページがめくれるようになり、パソコンのマウスが使えるようになり、この頃からぼちぼち頭の体操もしていかないとパソコン操作を忘れてしまいそうで、そちらのほうが心配になり、友達に本を買ってきてもらったり、パソコンを持ってきてもらったりして、この際仕事のことは二の次にして大いに勉強してやれ!と思うようになっていきました。前向きに考えたんです!
 夏、自分は祭りを主催する仕事をしていましたので、ちょうどその頃その祭りの最後に上る花火の音だけが聞こえてきました。なんだか寂しい限りでしたね。
 時間とともに自分の体が徐々に動いていき、それに伴って行動範囲が広がりました。
 リハビリの甲斐があって少しの距離を立って歩くことが出来るようになり、行動範囲の拡充にさらに拍車がかりました。エレベーターで病院1Fにある喫茶店に行きコーヒーを飲むことも可能になりコーヒーチケットを購入しました。洗濯も自分で出来るようになりました。なんと大浴場にフリーで入れる許可がでました。この回復には主治医および療法士の皆さんが驚いていました。
 退院間際になって退院後の自分の生活を真剣に考えるようになりました。まずは自分自身の移動手段を確立せねば自宅に閉じこもりっぱなしになってしまうと考え、入院中に外出許可をもらい自動車運転免許センターに行き、適性検査を受けることを決意しました。緊張しました。というのも電話申し込み時にこの病気を説明するや否や難色を示されたんです。でも自分としてはアクセル・ブレーキ・ハンドリングとも自信たっぷりでしたので、焦らず自身を持って毅然とした態度で絶対にパスする気持ちで望み、見事?情けで?なんと合格しました!ちょっぴり泣けてきました。
 次に自宅トイレの改修です。洋式でしか出来ませんからそのように改修しました。
 あとは、生活面での不安の解消です。独りで暮らしていくつもりでしたので、掃除洗濯・入浴など自分で出来ない可能性のある事項をあらいだし、障害者自立支援法を利用しヘルパー派遣を申請しました。申請は認められ非常に助かりました。


(4)退院
まさに奇跡的な回復だったと言われるとおり、車椅子を手で押してカート代わりにして歩いて退院できました。皆さんのお陰と重なるラッキー!のお陰だと思っています。転院してきて半年後の年の暮れが押し迫るころでした。退院後は通院でリハビリを続けて日常生活そのものがリハビリとなるように薦められました。ただし、絶対に無理をしてはいけません!ときつく注意もされました。
退院日は念願の寿司を食べに連れて行ってもらいました。やはり美味しいですね!
 独り暮らしとはいえ食事だけは実家の母に頼ることとなり、実家までの数百メートルを歩くことでリハビリができると考えました。3回ほどこけた(膝を付いてしまった)ことがありましたが、なんとか続けたところ、徐々に杖も要らないくらいに歩けるようになりました。
 実は、運転免許適性検査に合格したこともあり、退院直前に新しい車を注文していたんです。その車が納車され、運転免許センターの教官からは「暖くなってから運転してくださいね」といわれていましたが、実際納車されてみると運転してみたいじゃないですか。恐る恐る乗ってみました。ガレージから出て、角を一つ曲がった途端に、「なんや!楽勝やんか!」。その瞬間、感極まってその日一日運転してしまいました。この頃はまだ握力が測定不能だったのに、腕の力があるだけで楽勝に車が運転できるんです。この日から爆発的に行動範囲が広がりました。
 次に、実は退院直後にしばらく車椅子は手で押すにしろ座るにしろ手放せないのではと思っていましたので、装具屋さんに車椅子をオーダーしていたんです。これがついに納品されました。でも実際は前述の通りほとんどというか全く車椅子は必要なくなっていたのです。キャンセルも出来ずに今では家でほこりをかぶっています。
 身体障害者手帳を持っているといろいろと経費的に優遇されるものがあります。医療費・自動車税・所得税・高速道路料金などはよく知られていますが、携帯電話も相当安くなるんですよ。私はもれなく申請しました。退院後2ヶ月ぐらいのことです。


(5)その後
 一週間を規則正しく過ごすよう心がけ、きっちり予定をたて、一日あたりの歩行数を万歩計で測りながら歩数制限しました。
 ある程度歩き慣れてくると今度は一日の疲れがなかなか取れない状況に困るようになっていきました。深刻な問題でした。体がだるくて動き辛くなってきました。そこで、友達の紹介で保険の利く整骨院でマッサージを受けることを始めました。これは良いですよ!すごくスッキリします。歩きが益々上達していきました。
 私の最終目的は社会復帰ですので、復帰後にはこのまま病院でリハビリは続けられなくなることから、昼間のリハビリから夜間の民間によるスポーツジムをその代わりとして導入し、職場復帰後もリハビリが続けられるようにと契約しました。ここではトレーナーによるメニュー管理をしていただき、先々無理なく運動が続けられるよう指導してもらっています。
 でも、全体的に休息は絶対必要です。私は1週間に2日は完全休息の日としています。
 つまり、リハビリ(運動)とマッサージと休息、この3つのベストミックスが早期回復の秘訣だと思います。
 そして、発症から約1年5ヶ月で復職の目処が付き、それまでに少しでも回復するよう日夜励んでいます。また、読書を通じて勉強も怠らないよう努力しています。


最後に、現在療養中の方々に贈る言葉です
 1、絶対!動けるようになります。
 2、直す気力を忘れず!常に前向きにいきましょう!
 3、私のように後遺症が残る可能性があっても、その立場を逆に利用するんですよ!
   私など、体が回復して身体障害者手帳が剥奪されたら、経済的にきつい!な
    どと不謹慎なことを今考えているくらいですよ。
 4、入院中・療養中はどうせ動けないんですから、この際に勉強・読書をしてください。
 5、焦らなくても大丈夫です。じっくり構えましょう!
 6、その後のリハビリは硬く考えずに、いわゆるフィットネスと考えればいいんですよ!


 以上です。
 皆さんがんばってください!
 私も引き続き100%回復までがんばっていきます。

(平成18年7月記)

この闘病記は、「ギラン・バレー症候群のひろば」の管理人であった田丸務様を通し、前崎貴美様ご本人に転載のご意向を確認した上で、掲載しております。