闘病記(T.I.様)

T.I.氏 〔発症日=平成21年1月、男性、56歳、会社員〕



     入院日 2009年(平成21年) 2月 7日
     退院日 2009年(平成21年)11月21日
     復職日 2009年(平成21年)12月 7日

2009年1月下旬 発症
 風邪をひいたような微熱と間接の痛み、それに下痢の症状が1週間程続く。薬も飲まずにいたら、そのまま自然に治ったかにみえた。


2009年2月6日 意識を失う
 就業後に会社の事務所で雑談していた最中に意識が段々と薄れていき、そのまま椅子に座ったまま意識を失う。体を揺さぶれて1、2分後には意識を取り戻したが、その時点では体の痺れや動きの異常は感じなかった。念のため会社の上司が自宅まで送ってくれた。
 夕食も普通に食べ終えて入浴中のこと、体の痺れを感じ、同時に体や頭を洗う時にいつものように手がうまく使えない。この時に通常とは違う体の異変を感じたが、翌日は土曜日で会社も休みのため朝一番病院に行くことに決め、早めに就寝する。


2月7日 入院
 7日朝、いつものように朝刊をとりに玄関に飛び降りた時に膝折れし尻餅をつく。その後、時間が経つにつれ手足に力が入らなくなり、タクシーで脳神経外科の個人病院に(大きな総合病院で診察を受けたかったが、土曜日は休診のためやむなく個人病院で受診)。
 病院に着くと、歩行はおぼつかなく、握力もなくなり、受付で名前すら書くことができず、すぐに車椅子を用意される。
 午前中は握力測定(左右ともに2~3kg)にCTやMRI、心電図等の検査をするが、異状が見つからず、2泊の経過入院となり、病室へ。しかし、痺れと体の動きは徐々に悪くなり、トイレにいくのがやっと。翌朝は歩くのが困難、容態は悪くなる一方で、総合病院への転院が決まるが、日曜日のため受入れは翌日(月曜日)に延びる。この時は首から下は殆ど全身麻痺の状態。


2月9日~ 公立の総合病院へ転院、治療
 転院先の神経内科医は、受入れ時点で既にギラン・バレー症候群の疑いを持っていたらしく、すぐに髄液検査や筋電図検査等を受ける。筋電図では神経の伝達に異常が判明し、髄液検査では後日、カンピロバクターの陽性反応が出て、ギラン・バレー症候群(GBS)と診断された(心当たりは忘年会で食べた鳥刺しが怪しい)。
 初めて耳にする病名で、年間発症率が数万人に1人という難病であることと、私の場合は呼吸筋までは麻痺していないが、重症の部類に入るとの医師の説明で精神的にかなり落ち込む。
 ステロイド剤と1回目のガンマグロブリンの投与治療(10本/日×5日間)が始まるが、既に急性期は過ぎているようで呼吸筋の麻痺は免れるものの、首より下は完全に麻痺状態で改善の兆しは全く見えない。嚥下は発症後も正常。
 グロブリン投与の後、血漿交換治療の方法も説明を受けたが、合併症併発のリスクもあるとの説明で、この治療は断りました。

 こうして全身麻痺の状態で殆ど寝たきりの苦しい入院生活が始まった。
 まず排泄の問題。病院側にオシメを勧められたが、自分としてはオシメだけは絶対にいやだと拒否した結果、“大”は看護師が4人がかりでベッドから車椅子、車椅子から便座へと移動させてもらって用を足す(用を足せばこの逆の手順)。
 “大”は人手がいるため夜間はトイレ移動できないとのことなので、下痢しないように、便秘しないように決まった時間に“出る”ように努めた結果、排便(大)に関するトラブルはなし。寝返りは全く出来ないため看護師が夜間も2時間に1回は寝返りさせてくれたが、もともと腰痛持ちだったので脂汗がでるような痛みに耐えかね、痛み止めの注射も打ってもらった(手が動かないためナースコールも押せずに同室の患者さんにナースコールを何度も依頼)。
 その他に食事、歯磨き、入浴(ストレッチャー)、着替え等々何ひとつ自分で出来ない。まるで着せ替え人形のようになった自分の体を思うたびに、心まで段々と沈みこんでいきました。
 こんな自分に対し、看護スタッフの皆さんのモチベーションは高く、仕事とはいえ、献身的な看護と、ベテランの看護師からは病気に立ち向かう心構えを話してくれたり、私の不安やグチも親身になって聞いてくれました。
リハビリテーションは平日の2回/日(1回30分程度の)、手足の屈伸運動や仰臥のままで自転車のようなペダル(病院手製の)をこいだり、起立台に体を固縛し傾斜角60度~80度で20分程度両足立ちする訓練などが主体でした。
 担当の若い療法士は大変研究熱心で、百金で材料を調達し作ってくれた補助具を使い、雑誌や新聞のページがめくる練習や、手足の肘や膝や指の関節が固まらないようにと、療法士や家族も毎日のように良く揉みほぐしてくれた。
山歩きが趣味で、これまで病気らしい病気もしなかった私が、突然の全身麻痺、私同様に家族の不安も大変なものだったと思います。
 平日の昼間は妻が、夕食時は甥のT君が毎日のように、週末は県外の娘夫婦や息子が交代で来てくれた。
 会社の仲間が織ってくれた千羽鶴が届き、病室の天井に提げてもらう。数えてみたら本当に千羽。その気遣いに感謝。息子たちは当HPに掲載してあるGBSの情報とか闘病記などをコピーしては、「必ず治る病気だ」と励ましてくれた。


2009年3月~(入院2ヶ月目)
 3月に入り2回目のグロブリン投与(10本/日×5日間)を行ったが、この投与による症状の改善効果は全くなく、身体の動きや痺れの改善は殆ど見られず、相変わらず全介助が必要。ベッドでの座位は体の周囲にテーブルやクッション類で固定してもらい、短時間なら維持できる。車椅子には看護師二人がかりで移してもらうが、腕が上がらないため漕ぐことはできない。

 年間発症率が5万人~10万人に1人という難病、悪いこともしていないのにどうしてこんな病になったのか、ひとりになれば何故自分が、何故自分が………と心の中で繰り返す毎日でした。

 花粉症持ちのため病棟外へは出ることもなく、季節を肌で感じ取ることはできませんでしたが、病棟6階から見える外の景色は梅から菜の花へ、そして桜の開花へと季節の移ろいは確かなものでした。病棟から見える行き交う全ての人が自分より幸せにそうに見え、対する自分は何と不幸な人間なのかと、呪うような気持ちで眺めていました。

 痺れや身体機能回復の目立った効果が出ないまま、主治医や家族や療法士とも今後の治療方針について相談しました。現代医学ではこれ以上の治療法は望めないらしく、本格的なリハビリと自然治癒力に委ねるため松山市郊外のリハビリ専門の病院に転院することになった(主治医に複数の転院先を紹介してもらったが、実際に妻や息子がリハビリの様子を見学して、休日なしでリハビリをやってくれる病院に決めた。この選択は正しかったと思います)。


2009年3月30日~ リハビリテーション専門病院へ転院
 転院初日ひととおりの検査、体重は発症時の62kgから52kg(176㎝)へ大幅に減少、その後に主治医と面談。「GBSの軸策型は末梢神経のダメージが大きいのであなたの今の神経系統は胎児程度しかない。リハビリしても回復は数年単位で考えてください」と言われ、初日より家族共々相当のショックを受ける。

 午後から早速OTのリハビリがスタート。先ずはOT療法士の助けを借り寝返りの練習、続いてひとりでやってみると何と出来たのです。この時に少しだがひとりで体を動かせたことにより、リハビリを続ければ動けるようになれるかもしれないという僅かの光明を感じる。

 翌日よりPT(理学)・OT(作業)療法士による手足や股関節のストレッチや体の動きや筋力を回復させるための本格的なリハビリが始まる(休日なしの3時間/日) 。


2009年4月~ 
 PT :硬くなっていた下半身のストレッチが主体のリハですが、その痛さに我慢できずに病棟全体に響きわたる悲鳴を上げる毎日でした。ベテランのPT療法士は私の悲鳴なんかには気にもとめずに、ユニフォームが汗でビッショリになるほど懸命にやってくれました。毎日のストレッチで段々と体がほぐれてはいったが、その痛さに慣れることはなく、私の悲鳴は5階病棟では有名になりました。
 PH(プラットホーム:リハビリ室に設置してある台)での座位(クッションを敷きお尻の位置を高くして)から立ち座りの繰り返し。立位は体を持ち上げ支えてもらい膝ロックで数秒間の保持がやっと。日本製の車椅子は重たくて自分では漕ぐことができないので、この病院に2台しかないスウエーデン製の30万円もする軽量型の車椅子を私専用として貸与してくれた。
 この軽量型車椅子のお陰でリハビリの合間に院内廊下を自力で移動できるようになりました (院内の階段は鉄の扉があり車椅子が落ちないようになっている) 。

 OT :まず腕の動きが出るようにと、療法士が腕を持ち上げ下げたりの繰り返しや腕と指先へのマッサージ、補助具を使い小豆などをスプーンを持って皿から口元に運ぶ食事の訓練が主体でしたが、手の力が殆ど失われたままで、なかなか動きは出ないまま最初のひと月は過ぎていった。

 ヘルパーの I さんは私の部屋を通るたびに、「何か御用はありませんか?」と病室を覗いては、私が困っている身の回りのことを色々とお世話していただきました。「いつもすみません」と伝えると、「これが仕事ですから気にしなくていいんですよ」といつもやさしい言葉をかけてくれました。いつしか廊下を歩く I さんの足音を聞き分けられるようになり、四肢麻痺の私には天使のような存在で、その後も私の回復レベルに合わせた介護をしていただきました。その他の看護師やヘルパーも手が空いた時は病室へ来ては、話の相手をしてくれ、気遣ってくれた。
 ナースコールはボタンが押せないので、タッチ式も枕の横に併設。

 病院へは昼間はバスを乗り継ぎ妻が、夜の就寝時間までは甥が、週末は息子や娘夫婦が顔を出してくれ(転院までの5ヶ月間続いた)、私の不安を随分と和らげてくれた。


2009年5月~ 
 PT :体を完全に支えてもらい歩行訓練もしてみるが、歩く動作そのものを体が忘れているようで一歩がなかなか出ない、まるでピノキオです。殆ど体重を支えてもらっているのに、膝折れやバランスを崩し何回か転倒したことも。この時期は膝のロック状態での立位維持が1分程度。膝が少しでも曲がればすぐさま膝折れする程度の筋力。PHからの立ち座りも続けた(お尻の位置を段少しずつ低くしていく) 。

 OT :腕の上げ下げのリハも仰向けの状態から座位のままでやる時間が増えていったが、手先の力や動きが必要な食事・歯磨き・着替え・排泄・入浴など殆ど全ての日常の動作は相も変わらず全介助が必要でした。

 病室は相部屋(二人部屋)ですが、途中から鼾の凄い患者さんが移ってきて、睡眠導入剤も効果なしで睡眠不足が続き、リハビリに影響してはと思い、費用は余計に嵩むのですが、個室に移りました。ただし個室も良し悪しで、夜ひとりでベッドに横たわっている時などは、人恋しく無性に寂しいものでした。

 体幹の低下によるものなのか、リハビリで下半身に力を入れると塑型ヘルニア(いわゆる脱腸)の症状も出て踏ん張りができない。そうなるとリハビリもその度に中断し、この状態では思い切ったリハビリが出来ないことが心配になり、3月までいた総合病院での手術も検討してもらうが、GBS発症後あまり時間も経過していないことから手術は見送られる(以後脱腸の度にリハビリを中断し、看護師や療法士に“脱腸を入れ直して”もらいながら続けた)。

 健康な時には何でもない動作が出来ず、時間だけが過ぎていき、将来の展望も見出だせないまま(自分では)、さすがに精神的にも段々と追い詰められていくようでした。この頃から生きていくことに対して疑問を感じるようになり、自分で自分の感情コントロールが出来なくなっていき、妻や病院スタッフにもつらく当たるような言動が目立つようになりました。またお見舞いに訪ずれる会社の人たちとの面会も億劫に感じるようになりました。

 いつしか無意識のうちに「死にたい」と独り言が出るようになり、どうしたら迷惑をかけずに自死できるのかと考えるようになりました。ナイフ、ロープ、飛び降り………ひとりになるとそんな言葉ばかりが頭の中をクルクル回っていました。幸か不幸か、この時期の私の体は自分を始末するだけの力も動きも出ませんでした。

 息子のすすめもあり、診療内科医の診察を受けたら、鬱の症状が見られるとのことで、抗うつ剤や精神安定剤の服用を始めた。思い起こしてみると、10ヶ月の入院中この頃が精神的に一番不安定で、全てに対して悲観的にしか物事を考えられなくて、どん底だったように思います。


2009年6月~ 
 PT :歩行器を使っての院内廊下の歩行リハを開始。リハ中は何度か膝折れし、その度に療法士が素早く支えてくれた。上体を歩行器にもたれ掛かり、まるでロボツトのようにゆっくりギクシャクした動きです。エレベーターの昇降も体が宙に浮く感じで、最初は療法士にしがみついたままでした。

 OT :メニューは私の精神的な落ち込みも考慮したのか、手先の細かな動きのリハは一旦中断し、上半身や腕全体を使うリハにより上肢の筋力や体幹を回復させるようなメニューに変更していったような気がします(例えば起き上がり・お手玉投げ・筋トレなど) 。

 その結果、両手が胸の高さまで上がるようになり、力のない指先の代わりに肩や腕や上半身の動きが指先の代償として働き、6月下旬になるとスプーンによる食事・歯磨き・洗面等が少しずつ出来るようになっていく。お風呂はストレッチャー、更衣は全介助。

 本来ならば日常動作が一つでも二つでも出来るようになったことを素直に喜ぶべきですが(娘からも気持ちの持ちようを変えたらと随分言われた)、当時は出来るようになったことよりも出来ないことの多さの方を嘆いてしまう状態で、イライラや不満のはけ口はいつも妻でした。
 看護師からは「 I さんっていつも何か思い詰めている顔をしているね。もう少し笑ったら」と言われる始末。

 発症から4ヶ月経過し、貯めていた年次休暇と療養休を使い果たし会社は病欠扱いとなり、いつ会社からクビを言い渡されるだろうとかと気になる(後日同僚に就業規則を調べてもらい、28ヶ月の休職が可能であることを知り少し安心する)。


2009年7月~ 
 PT :歩行器で病院前の公道を歩く訓練が始まりましたが、僅かの段差や傾斜、小石が怖くて足元だけを注視して歩きました。1年ぶりの夏の日差しを浴びて首や腕がヒリヒリしたのを覚えています。この頃のPTは毎日2時間ひたすら歩くリハで、顔や腕もこんがりと日焼けする程でした。夜自主トレしている時に初めて正座ができた。この頃から体の動きが自分でもよくなってきたように感じる。

 OT :トランスファーボードを使いベッドから車椅子への乗り移りが可能になり、食堂やトイレまではスタッフを呼ばなくても車椅子での移動が可能になる。食事も大小スプーンと障がい者用の箸(箸ゾウくん)を使い分け、自立。また更衣(ボタンやファスナーのないもの)、入浴、洋式トイレ使用などの日常生活復帰に向けた実戦的な訓練も始まる。

 テレビのリモコン操作やラジカセのスイッチ操作が出来るようになり、夜はニュース番組とFMやCDでクラッシックが聞けるようになり、少し気分が紛れるようになる。J..バッハの曲には随分と心落ち着かされたような気がします。
 ラジオから流れるテンポよく明るい感じの歌謡曲は自分が取り残されているようで、「故郷」などの唱歌の類も心が折れてしまいそうで、だめでした。

 病気前はよく読んでいた本や新聞は文章が全く頭に入らず、活字を眺める程度で、文章を読んで客観的に考えることが出来なかったように思います。書く方は娘の進めもあり、指先の訓練も兼ね日記をつけるようになった。勿論ミミズが這ったような文字ですが、日にちを追うごとに“読める”文字になっていきました。

 2月の発症以来、年老いた熊本の母には、妻や兄と相談して私の病気のことは知らせまいと決めていました。母は月に数回は自宅に電話してくるので、入院後は当然のように私は“いつも不在で”妻も不在がちのため、少し気にはなっていたようです。母に気付かれないため、こちらから定期的に電話をかけ(てもらい)、母「変わりはないか?」、私「変わりはないよ」と、空元気で話し受話器を置いた後は、言いようのない切ない気持ちでした。一方では、歩けるようになった元気な姿を母にもう一度見てもらえるようにと、「頑張らなければ」と自分自身に言い聞かすもう一人の自分もいました。


7月下旬~
 歩行器を離れ体を支えてもらいながらの歩行訓練が始まったが、最初の内はPT療法士が少し手を離せばそのまま体が倒れてしまいそう、まるで綱渡りのような感じでした。杖は妻と療法士が相談したらしく、杖に頼らない歩き方になるようにと訓練では使いませんでした。発症前は山登りや沢登りもしていたためか、体のバランスをとる感覚は比較的良かったように思います。
 7月30日に家屋調査のため、発症後初めて自宅へ帰る。何十年ぶりに帰ってきたかのように、家族と過ごしてきた部屋や自分の書斎を一つひとつ確認するたびに涙が溢れ出てきました。半年ぶりの自宅での夕食は、病院食の薄味に慣らされていたため、どの品も濃い味付けに感じられたが、まさしく妻が作ってくれた我が家の味でした。

 家屋調査は退院後に自宅で安全に日常生活が過ごせるようにと、担当のPTさんOTさんによる以下のような改修計画を作成してくれました。
 玄関や段差部分に手摺り踏み台の取付け、便座シートを高くする(病院の便座より家庭用は低い)、ベツドの位置、階段に昇降機(座ったまま1階と2階の昇降可)を取り付けるetc.でした。その後のリハビリで何とか日常生活ができるレベルに回復し、結果的にはこの改修計画は実行することなく自宅へ帰ることができました。


2009年8月~ 
 PT :やっと病棟廊下をよたりよたり独歩できるようになる(歩くといっても僅か数mのレベル) 。
 トイレも便座より自力で立ち座れるようになり、昼間は介助なしで排泄が可能となる。健康な時には当たり前のように思っていたことが、こんなにも嬉しいこととは………。
 転院日も迫ってきており、8月中旬に入ると病棟の階段の昇降訓練(1階のみ)や院内の上り下り坂の歩行訓練、両足首に1kgのウェイトを巻き付けての歩行も加わり、少しずつ歩ける距離が延びていく(1時間のリハが終わると、クタクタでした) 。ベッドでの起き上がりや座位からの立ち上がりも容易になっていきました。

 OT :PHより立ち上がり訓練の繰り返し、その成功率も上がってくる。入浴や更衣訓練も続く。上肢筋トレ(8kgウェート)にスクワット(スクワットは足の筋力がなく、少し膝を折るとすぐ崩れる)も加わる。

 食事も車椅子ではなく、食堂備え付けの椅子を利用するが、座わるために椅子をずらすのが重たくて苦戦、いつも隣席のYさんがさりげなく手伝ってくれる。歯磨や洗顔はしんどいけど出来るだけ立位でやるように心掛ける。パジャマがひとりで着られるようになる(ボタンがけではなく首)。トイレは昼間独歩、夜間は歩行器使用。
 ある夜トイレから部屋へ帰ってベッドに腰掛けようとしたら床に尻餅をつく。まだ床より起き上がる力はなく、じっと床に座っていると、運良く看護師さんが通りがかり助けてくれた。
 転院前日になって、やっと男性用トイレに立ったままで小用を足せるようになる。

 転院期限の5ヶ月が迫ってくるが、今の状態で退院しそのまま自宅に帰っても安全上のリスクが大きく、また妻の介助負担も大きいため、リハビリ専門で受入れしてくれる複数の施設を、担当のソーシャルワーカーに紹介してもらった先を息子が見学し、3ヶ月のリハビリ入院(3時間/日、日祝祭日休み)が可能な次の転院先が決まる。

 転院前夜は長い間お世話になった患者のYさんが、私への餞別とばかりに浴室のバスタブにはってくれた湯で、甥の介助でゆっくりと汗をながす。夜は雨で順延になっていた市内の花火大会を、5階の病室からYさんと甥の3人でそれぞれの感慨に耽るかのように、無言で打ち上げ花火を眺めていました。

 翌日はお世話になったスタッフや涙を溜めたYさんの見送りを受け、5ヶ月間お世話になった病院を後にし、転院先へ向かいました。


リハビリ病院でのリハと自主トレの内容まとめ(2009年4月~8月)
 PTリハビリテーション内容:毎日2時間(1単位×1時間×2回)
 腰から下の筋肉や筋のストレッチ、座位、立位維持、立ち座り、歩行器、介助歩行、自力歩行、手足にウェイトを巻き付けての歩行、階段昇降、院外歩行・坂道歩行etc

 OTリハビリテーション内容:毎日1時間(1単位×1時間×1回)
 寝返り、スプーンや箸で物を掴む、ペツトボトルを持つ・掴む、腕を持ち上げる、お手玉や大小ボールの投げ・受け、ベッドや床からの起き上がり・寝る、更衣訓練、トランスファーボードでベッドと車椅子の移動、入浴訓練、手首にウェイトを巻き付け筋トレ、両片足膝立ちetc

 このリハビリ病院でのリハビリは1日も欠かさず1時間たりとも休みませんでした。

 自主トレ内容:リハビリは1日に3時間のため、リハの合間合間や夕食後に自主トレをやるように心がけた。最初の頃は車椅子移動による腕力強化、歩行器や独歩での院内歩き、ベツドからの立ち座り(電動式ベツドの高さを少しずつ低くしていく)。PHでの腕立伏せ(膝はつけて)、片足膝立て、両足膝立て歩き、ストレッチ等など。昼間はリハビリ以外の空き時間も殆ど横になることはせずに(体を動かしていないとこのまま動けなくなるようで、とても不安でした)、体の動きや筋力の回復に応じて何かの形で自主トレをしていました。


2009年8月24日~ リハビリテーション継続のため個人病院へ転院
 発症してから3度目の転院。担当してくれるPTとOTの療法士と面談し私の現在の体の状態の聞き取り調査が行われる。お二人ともこの春卒業し療法士としてこの病院で勤務されている23歳(当時)の若者。

 転院時点での体の回復状態は両手両足の痺れはあり(痺れそのものは殆ど改善していない)。握力は左右測定不能(5kg以下)。足の筋力は低い椅子からの立ち上がりはできないが、平坦な道路ならゆっくりと数十メートルは歩行可。階段は一人では歩行不可。食事やトイレや洗面は自立、衣服(ボタンのない)の更衣は座ってなら可。入浴は介助要。
 歩行器と車椅子は使用せず。夜間のトイレは廊下の手摺を持ち伝い歩き。

 この病院は街中にあり、車や人通りも多いが、早速PTリハで200mほどの病院周囲の歩道や車道を40分程かけて1周する。人や自転車の往来が多く、すれ違うたびにヒャツトとし、背中は汗びっしょりになる。若い療法士さんはまだ経験が浅いようだが、大変熱心で屈託がなく、会話しているとリハの辛さも薄まる。


2009年9月~ 
 当初は40分かかっていた歩行も、午前と午後の1日2回の歩行訓練により歩く速度も日ごと速まり、30分で病院に帰ってこられるようになる。そして歩行エリアも週単位で延びていき、周りの風景を楽しめる余裕も生まれ、段々と歩くことが楽しくなってくる。歩行から帰ると色んな小道具を用いて体幹や下半身強化の筋トレ実施。リハ以外の時間は筋トレやストレッチのメニューを療法士から作ってもらい、自主トレに励む。

 体の機能が上向いてくると不思議なもので、何事も悲観的な考え方しか出来なかった私の心が、段々と落ち着きを取り戻していくのが分かりました。ある日、看護師さんから「Ⅰさんって笑うのですね」と言われるぐらい笑うことを忘れていたようです。

 握力 左6kg/右測定不能(5kg以下)左手の握力が初めて測定可能なレベルになり、リハ室の療法士一同から拍手が起こる。


9月下旬の週末
 発症後初めて自宅での外泊許可が下りる。息子の運転で妻の待つ我が家へ。既に息子が玄関にブロックの踏み台を置いており、夕食時は焼き魚の身だけをとってくれたりの気の使いよう。この後は日常生活に順応させる目的で毎週末は自宅外泊となる。

 車の運転の練習は息子を横に乗せ、会社のグランドでやってみる。エンジンスターターが回せない以外は思っていたよりスムースだ(エンジンスターターは半分に折った割箸をキー握部の穴に突っ込み回す・・・テコの応用) 。


2009年10月~
 チンチン電車が走る目抜き通りの横断歩道(15m程度の)を渡る練習が始まるが、歩くのが遅く横断途中で信号が青から黄赤信号に変わり(有難い事に車やバスもその間待っていてくれる)、道路中央部の電車の停留所で次の青信号まで待機。でも、2週間もすると1回の青信号で渡れるようになり、単純にうれしくなる。
 病院内の階段の昇降も時にはバランスを崩し療法士に助けてもらうこともあったが、手摺を両手で持ち一人で1階~6階を往復できるようになってきた。街中のエスカレーターや地下道の昇降も、見守りがあれば何とかこなせるようになってきた。
 この頃になると入浴、更衣も時間はかかるが自立し院内での介助は殆ど不要。リハの内容も外泊時に出来なかった、不便だと感じた事柄に対して訓練するメニューを追加してくれる。日常生活への復帰も段々と自信めいたものが沸いてきた。
 握力 左8kg/右6kg


10
月下旬
 実家(熊本)の母のお見舞いのため妻の助けを借り、飛行機とJRを乗り継ぎ帰省する。空港や駅では妻に手を引かれ杖を使用している私に、多くの方がさりげなくお手伝いをしていただき、素直に有難いと思いました。


2009年11月~
 私の要望で近くの公園の坂道や階段を荷物(2kgのウェート)を持って歩く訓練を開始。坂や階段は思っていた以上に疲れるが、公園の桜や銀杏など落葉樹の色づきが増すに従い、私の体も回復していく。和式トイレも念のため訓練するが、便器に跨る時間は1分程度が限界・・・(これで実際に用を足せるかは疑問だがこれも自信になる)。

 握力左右とも 8kg程度

 復職については会社の上司とも面談、私の心身の回復状態を確認してもらい、12月7日に復職することで手続きに入る(発症後の4ヶ月間は有給休暇と療養休で通常勤務扱い、5ヶ月以降は病欠扱い) 。

 PTリハは病院の近辺の歩道や車道、階段昇降の歩行訓練、鉄棒や平行棒を使用した各種筋トレ、スクワット、PH立ち座り、ストレッチetc
 OTリハは上肢の筋トレ、新聞紙を細かく千切る、洗濯バサミを箱の淵に挟む、大小のボールでキャツチボール、指先の機能回復訓練を主体にやる。


2009年11月21日退院
 10ヶ月弱の入院生活に終止符を打つ。
 退院してからは2週間後の復職まで出来るだけ体力回復を図る。
 まず自宅での日常生活そのものがリハビリだと意識し、身の回りは勿論、食器洗い、掃除機雑巾がけ、洗濯物を干す取入れ(洗濯ばさみの脱着が苦戦)、スーパーでの買い物や支払い(財布からの金銭の出し入れが結構苦戦)等など。
 日中の日差しのある暖かい内に妻と一緒に町内の散歩(約1km)。
 自転車には当分乗れないと思っていたが、ママチャリのサドルを低くして乗ったら、何と一発で乗れ、ブレーキも何とか握れる。

 季節は既に初冬、朝晩は気温が下がり手先の力は殆ど出ないので、食事の箸を落としたり、アウターのジッパーの上げ下げ、シャツのボタンの脱着は満足にできない。足の筋肉も痙攣する。こういう時はイライラもし、気分も落ち込む。

 復職を前に産業医との面談。産業医は大学病院の神経内科医なのでGBSの予後についても詳しく、復職後の注意点なども親切に話していただいた。


2009年12月7日
 復職(復帰先は10年ほど前まで在籍していた部署)
 2月6日に入院だから丁度10ヶ月ぶりの出社。自宅から会社(事業所)までは車で10分弱、会社の駐車場から勤務する事務所までは700mの距離。躓かないように20分かけてやっと到着。途中途中で顔だけ知っているだけの人にも声を掛けられる。使用する机やパソコン類も用意されている。

 こうして仕事への復帰を果たせました。勤務はデスクワーク主体ですが、仕事を終え帰宅すると、もうクタクタです。お風呂に入り夕食を済ませば、布団を敷いてもらい直ぐに横になっていました。

 週末は妻とお城や公園を歩いたり、美術館や本屋、レコード店などにも出掛け忘れかけていた“世間の空気”を吸い求めました。


2010年1月
 年が明け、仕事感も戻ってきた。デスクワークといっても、駐車場と事務所(2階)の往復、事務所と食堂の往復だけでも毎日最低2kmは歩かねばならないから、知らず知らずに体力もついていく(事業所内も特別に車の使用許可を得ていたが) 。
週末は自宅の拭き掃除とトイレ掃除は私の担当。晴れた日はフトンや洗濯物も干す。


2010年4月 通勤は車→自転車に
 自宅近くに小高い山(標高118m)の頂の満開になった桜を見に行く。山頂への道は人ひとりが歩ける幅しかなく、Wストックでバランスを保ちながら登った。木作りの展望台からリハビリしてもらった病院が春霞の向こうに見える。1年前は逆にリハビリ病院から桜色に染まったこの小高い山を眺めていた頃を思い出しながら暫し眺めていた。この小高い山は退院後の格好のトレーニング場になった。
 車から自転車通勤(1.5km)にきりかえる。


2010年5月 低山歩き再開
 自宅から登山口まで車で1時間の所にある低山(標高1280m)トレッキングへ。ザックの荷物を軽くし、Wストック使用(最近はウォーキング仕様のも売っています)。登りは息も絶え絶えになり、以前の倍以上の時間はかかるが、山頂での達成感は格別なものがありました。
 登山道で出会う山仲間たちも、一様に私の復帰を我が事のように喜んでくれました。

 こうして月に1、2回程度は低山をゆっくり時間をかけて歩くことにより、体力・筋力・持久力がついてきました。登山道でのWストックの使用は転倒防止のみでなく、両腕の筋力回復にもつながると思います。登山後は1週間位は筋肉痛が残るのですが、回数を重ねるにつれて歩き方がしっかりしてくるのが自分でも分かってます。


2010年10月 石鎚山登山
 入院時は再び登れるとは思ってもみなかった石鎚山(標高1982m)へ挑戦。早朝車で自宅を出発し石鎚スカイラインへ、2年ぶりに仰ぎ見る石鎚山は私の復帰を静かに祝ってくれているかのようで、とめどもなく涙が溢れてきました。
 登山口からは山頂まで歩けるだろうかと不安もよぎるが、行ける所まで歩こうと気持ちを切り替える。途中苦しくて何度も休憩しましたが、3時間かけて山頂へ到着。余力は殆ど残っておらず、へたり込みましたが、天狗岳を目の当たりにし、心の底から喜びが湧き上がってまいりました。下りは山仲間に付き添われて無事に下山。


2010年12月 雪山トレッキング
 山仲間数名で四国カルストを4時間のトレッキング、スパッツも自分で着用出来ひと安心。ブナの霧氷に木漏れ日がそそぎ林全体がピンク色に染まっていて、まるで桜林の中を歩いているような錯覚を覚える。Wストックで雪道もバランス良く歩けた。夜はカルストのホテルで忘年会。感謝!感謝です!


2011年3月 通勤は自転車→徒歩に
 会社までは片道2km、30分の道のり。ただ歩くだけでは勿体無いのでイヤホンで好きなクラシックを聞きながら、ザックには4kgの水入りペットボトル、両手にはハンドプレスと洗濯バサミで自主トレも兼ねる。重たく感じたザックもその内に慣れ、握力もついてくるが指先はなかなかです。


2011年4月 ランニング“練習”を開始
 公園内の芝のグランド(転んでも怪我しないように)でランニングを始める(2回/月)。歩くのに毛が生えたようなスピードであるが、ひと月の内に500mは走れるようになる。
自宅から公園(市街地)までの5kmはマウンテンバイクで走る。


2011年5月 短距離走の練習開始
 ついでにと短距離走の反復練習も始める。慣れてくると50mを12秒程度で走れる。
 ランニングも連続で1000mは走れるようになる。ただし、走ると2、3日は筋肉痛。寝ている時に攣るときもありますが。
 芽吹きの始まった低山歩きも(2回/月)疲れの度合いが軽くなり、歩行速度も段々と早くなっていく。


2011年6月 2度目の石鎚山登山
 昨年は歩くのが精一杯で廻りの景色を楽しむ余裕はなかったが、今回は新緑や高山植物を楽しめる体力筋力がついてきた。天狗岳への岩場も四つんばいで登頂。昨秋とは違い余力を残して下山できたようです。


2011年8月 北アルプス登山
 そして8月下旬ついに立山連峰(剱岳と立山)を山仲間の助けを借りて登頂。(山小屋2泊3日、3日間の累計歩行時間 24時間)
 剱岳(標高2999m)はカニのタテバイ・ヨコバイと称される鎖場の難所もあり緊張もしましたが(滑落すれば一巻の終わり)、難所では渾身の力をふり絞り通過しました。山頂は見渡す限りの大パノラマ、退院後は「いつの日か3000mの頂に立つ」ことを最大の目標に掲げていましたが、こんなにも早く達成できるとは思ってもみませんでした。改めて生かされていることへの感謝、生きていくことの素晴らしさに心が打ち震える思いがしました。


2011年12月現在(発症後2年11ヶ月、退院後2年)
【体の状況】
 痺れ…顔面は軽度の痺れと感覚の低下。
 両手は肘から指先、両足は大腿部から足先までの痺れ(先端部ほど強い)。
 上下肢顔面の感覚低下。
 いずれも発症時よりはすこしずつ軽くなっている感じはある。
 飛んだり跳ねたりした時に、どこまでだったら膝折れしないのか、両足の痺れにより限界が掴めない。
 関節や指先の変形はないが、ピース(写真撮影時の人差し指と中指)は出来ない。
 指先は回復が遅く力(摘まむ、剥がす、捻る、握る、持つ)は弱い…小学生以下か。
 体力…持久力は発症前の50%、瞬発力は30%程度か
 ランニング1500m、短距離走100mを20秒、腕立て伏せは連続20可
 自転車(マウンテンバイク)走行は全く問題なし、垂直サル梯子は10m程度は昇降可
   
 体重は発症時62kg→退院時52kg→現在55kg(身長176cm
 握力 15kg前後(発症前は右50kg台、左40kg台)


【生活面】   
 日常生活面は殆ど問題なし。
 歩道の段差は無意識に歩くと膝折れしそうになる。椅子から立ち上がった瞬間によろける時もあるが、通常の歩行は全く問題なし (無意識に動かないよう常に意識して行動するように心がけている) 。

 指先の力がないためペットボトルのふたやヤクルトなどの紙のふた、牛乳パックを開ける時、寒い時の衣類のボタン脱着が苦戦する程度。
外出先の和式トイレも使える。

 平日は仕事から帰るとかなり疲れているので(発症前より疲れやすい)、お風呂と夕食を早めに済ませ、クラッシックと読書(3冊/月のペース)で過ごし、10時には就寝し翌日に疲れを残さないように心掛けている。

 週末は趣味の山歩きを2回程度/月、散歩やランニング、家事の手伝い、遠出と雨天以外は車には原則乗らない(徒歩orマウンテンバイク)。
 基本は日常生活と趣味の範囲で体を動かすようにしている。「何々しなければ」ではなく、「何々して楽しもう」のスタイルです。



【最後に】
 人生山あり谷ありといいますが、GBS発症までは平穏な道を歩いてこられたように思います。それが突然の全身麻痺、将来への展望を見出せず体だけでなく心まで折れてしまい、生きることに絶望しかかった時期もあります。多分周囲の支えがなかったら今の自分は存在しえなかったと断定できます。病気になるまでは何でも自分ひとりで出来るという錯覚とひとりよがり、自分にとってプラスかマイナスであるかという尺度でしか物事を捉えることができなかったような人間でした。

 そんな欠点だらけの人間が家族、医療・リハビリスタッフ、仕事仲間、山仲間そして共に病と戦った患者さんなど 多くの人に励まされ慰められ支えてもらい、初めて生かされている事に気付かされたように思います。

 闘病中に目の当たりにした生まれながらにして障がいを抱えた子供たち、突然の病気や事故により障がいと向き合っている老若男女たちが、日常の世界に戻りたい一心で懸命にリハビリに取り組む異次元の世界は、私に生きていくことの意味や価値、個としての存在を来る日も来る日も問い続け考えさせてくれました。今でもはっきりした答えを見出すことはできませんが、私の価値観や人生観のようなものが変わってきたような気がしております。

 全身麻痺から2年10ヶ月が経過、お陰さまで3000mの山を歩けるようになるまで回復してきた私ですが、全てを受容できているわけではありません。いまだにGBSを発症したことを悔いる時があることも事実です。

 そんな私に、当HPの「私の読書ノート」で紹介されていた言葉があります。かつて米国の人気俳優(バック・トゥ・ザ・フューチャー主演)で、難病の若年性パーキンソン病と7年もの間闘い続けているマイケル・J・フォックス著『ラッキーマン』にある言葉です。

 神様 自分では変えられないことを受け入れる平静さと、
 自分に変えられることは変える勇気と、
 そしてその違いが分かるだけの知恵をお与えください。


 いつの日か、リハビリする側される側、共に闘い共有できた日々は決して無駄ではなかったと、貴重な体験をさせてもらったのだと、自然と思えるような自分に成長できればと願いつつ、今後は少しでも社会へのご恩返しができるような生き方を見つめていきたいと思っております。
                (2011年12月記)


〔追記・・・2016年3月現在の状況(発症から7年)〕

【体の状況】
1.痺れ、脱力
 両手(肘から手先)両足(膝上から足先)ともに痺れは依然として残っており、寒い時期の両手の親指と人差し指の脱力はあるものの、日常生活には全く支障ありません。
2.体力、持久力
 GBSの後遺症によるものか加齢によるものかは判別できませんが、自身では加齢による体力低下と思っています。(笑)
 体力維持対策として
 ・年20回程度の登山(夏の日本アルプス縦走、地元石鎚山系は四季を通じて)
 ・仕事以外では車は使わず、徒歩か自転車を使用、自宅近くの低山歩き
 ・筋トレ2回/週

 多分、何も運動されていない同世代よりは体力持久力共に引けはとらないのでは?と自己満足しています。(笑)

【仕事・生活】
 2012年秋に定年を迎え、その後も嘱託として勤務し2015年の秋に63歳で退職、現在は資格を活かして老人介護施設、病院、太陽光発電所等の電気設備の保安業務を続けています。(業務日数は月に15日~20日程度)
 痺れと脱力でさすがに手先の器用さは無くなり他の人より仕事の時間はかかりますが、時間がかかる分は丁寧さを心がけるようにしています。

趣味の方は元々山歩きが好きでしたので、GBSから復帰した後も地元石鎚山系はじめ劔岳・立山、北岳・甲斐駒ヶ岳、双六岳・笠が岳、薬師岳、空木岳等の日本アルプスや屋久島宮之浦岳、九重山等々も歩いてまいりました。
 年1回の遠征登山(とは言ってもお山でせいぜい3泊程度ですが)は自分のGBSからの回復具合や現在の体力を知る上でも参考になっています。

 またGBS入院時に心の拠り所であったクラシック音楽は勿論、最近はジャズにも親しむようになり生活に彩りが増してきたようで音楽の力って凄いなと思います。他には読書(最近は夏目漱石とロシア文学)・クラッシックコンサート・釣り・映画・山仲間や会社時代のOBとの飲み会等々も楽しんでいます。

 たまには仕事で嫌な思いもしますが、7年前の四肢麻痺の苦しかったことを思えば、今は少々苦しいことや嫌なことがあっても大抵は受け流すことができるようになり、この歳になってやっと肩の力が抜け少しは成長してきたかなと思えるようになりました。笑
 これからも周囲の支えにより平穏な生活ができることへの感謝の念を忘れることなく、今のこの時間を大切に生きてまいりたいと願っています。
                          (2016年3月記)

この闘病記は、「ギラン・バレー症候群のひろば」の管理人であった田丸務様を通し、T.I.様ご本人に転載のご意向を確認した上で、掲載しております。