闘病記(T.N.様)

T.N.氏〔発症時=平成18年4月、42歳、男性、公務員〕
 ≪ 奥様からの投稿 ≫



1.はじめに

 夫がギラン・バレー症候群と診断されたのは2006411日。ちょうど8回目の結婚記念日でした。あれから5年が過ぎ、幸いにも後遺症や再発も一切なく、元気に、そして当時よりも健康な生活を送っております。

 夫の闘病中、当HPの「掲示板」からアドバイスをいただいたり、「闘病記(投稿)集」に寄稿された方々の体験談に励まされました。『ギラン・バレー症候群のひろば』は私たち家族にとって情報入手の場にとどまらず、心の支えでした。

 『ギラン・バレー症候群のひろば』への投稿を、と思いつつ5年も経ってしまいました(この不義理、どうぞご容赦ください)。ようやく本稿を書き記した次第です。

 何分5年も経ってしまっているため、本稿は「掲示板」の過去ログ(2006/4/202007/3/16)を読み返しながら書き記しました。また、入院から退院までの日々を手帳に記録し、投稿用にと書き起こしてくれた義父の原稿も参照しました(お義父さんの原稿を5年も寝かせたままでごめんなさい!)。

 夫の発症から職場復帰に至るまでの経過を、時系列で家族の視点から記しました。私たち家族が大いに助けられたように、この拙稿が少しでも、ギラン・バレー症候群と診断された方、そしてそのご家族の方々のお役に立つことができれば幸いです。



2.発症~入院

●入院初日(2006411日)

 前日には手足のしびれ、物が二重に見える症状が既に現れていたものの、11日は私の付き添いで朝から出かける予定があったため、そうした症状があることを夫は口に出さず、予定通りでかけました。4月に入ってすぐ、熱を伴う風邪をひいており、体調不良は風邪が長引いているんだとしか思っていなかったことを、私は後で深く反省しました。

 我慢強い夫ですが、さすがにこの日の午後に病院に行くことを希望しました。この時夫自身は「脳梗塞かもしれない」と思っていたため、かかりつけの病院の夕方診察ではなく、最初から市立病院に行って急患受付することを希望しました。今思えば、夫のこの判断は正しかったと思います。複数の検査をしてすぐ、ギラン・バレー症候群(以下、GBS)の疑いがあるという診断が出たからです。

 担当医(脳神経外科)が決まり、医師から聞いたことのない病名が告げられ、10万人に一人の割合程度の発症率であること、市立病院でも治療件数がそれまでに数件しかないこと、治療のための薬が非常に高く100万以上かかるであろうことが説明されました。

 ※後で、高額療養費制度について病院から説明いただきました。この制度の利用申請により、約111万円支払った医療費の内、約102万円が払い戻されました。

 その日に即入院となりました。次第に黒目の動きが悪くなり、視点がはっきりしなくなっていましたが、意識はしっかりとしていて会話も普通にできていました。


●入院2日目(2006412日)

 夫は薄く目を開いているようでしたがこの日から寝たきりになり、意思表示は完全にできなくなりました。医師からは軸策型の重症であるという説明があり、ガンマ・グロブリン療法が選択され、この日から5日間の予定で投与が始まりました。集中治療室に移され、呼吸補助装置による呼吸補助も始まりました。私はこの日から、インターネットでGBSについての情報を手当たり次第読みました。入院初日、担当医から最初の説明を聞いたときには、ショックで1日泣きっぱなしでした。しかし2日目以降、日々情報を得て知識が増えるにつれ、「大丈夫、夫は絶対治る!」と確信するようになりました。


●入院5日目(2006415日)

 担当医から「今日、明日がヤマで、これを乗り切れば快方に向かうでしょう」というお話がありました。実際、この日から3日間が一番辛そうでした。私たち家族は、面会の度に足や腕をさすったり、その日の出来事や庭に咲いた花の話など、夫にできるだけ話しかけるようにしていました。


●入院10日目(2006420日)

 自発呼吸が可能であろうと判断され、呼吸補助装置が外されました。回復の兆しに喜んでいた矢先、この日の夜の面会で、それまでになかった夫の様子にとまどいました。それまで瞼の開閉でなんとか意思表示(例えば、体の位置をなおした後に「これくらいでいいなら目をパチパチして!ダメなら目を開けたままにして!」と言って意思表示してもらう)をしてくれていたのをしなくなり、目を大きく見開いて足をばたつかせたり、全身に力を入れて体を起こそうとしたりしました。

 「私を認識できていないのだろうか?」「自律神経の障害が起きているのだろうか?」と、あらたな不安でこの日の夜はよく寝付けませんでした。翌日の面会時にも同じように目を大きく見開いて足をばたつかせたり、全身に力をこめて起き上がり、呻くような声を出していたのですが、一瞬「あ・つ・い(熱い)」と言ったように聞こえたので「体が熱いの?」と聞くと、顔を真っ赤にし、体をもう一度起こしながら「そう」と言ったのがわかりました。暑がりの夫は、掛け布団をかけないで欲しかったのです。布団を取り、脇に氷嚢を挟んだら落ち着きました。

 私のことが分からなくなってしまったのでは、という不安で頭が一杯になり、夫の訴えに気付いてあげられなかったことを深く反省しました。私を認識できなくなったのではなく、一生懸命何かを伝えようとしていたのでした。これは、「掲示板」を通してちょうだいしたアドバイスの通りでした。

 GBSでは、寝たきりで意思表示が困難になっていても、本人の意識ははっきりしており、周囲の言っていることを理解しているようです(後日、夫もそう言っておりました)。義理の父は集中治療室での面会の度に、日にちや天気、庭の草花の様子や、「だんだん良くなってるよ」と、夫の耳元で話しかけていました。今思えば、病状と関係のない話や回復に向かっているというポジティブな話しかけは、意識はしっかりしているGBS患者にとってとても良いことだったと思います。


●入院13日目(2006423日)
 この日までに点滴やその他の計測機器が全て外れ、入院後初めて食べ物(ゼリー1個)を口にしました。車椅子での移動も始まりました。とはいえ、首が直立せず前に下がっており、左目の視神経も未回復で、途中までしか動きませんでした。医師からは「手足の麻痺の回復よりも目の回復のほうが時間がかかるかもしれません」と言われました。



3.リハビリ

 入院14日目(2006424日)頃から徐々にリハビリが始まりました。最初は作業療法士さんとともにベッドの上で手足を動かす練習をしました。その後車椅子に乗ったまま、そして歩行器を使ってのリハビリへと移行しました。病院側による左目の回復訓練は特になかったので、鉛筆や指を使ってその動きを追う訓練を自分たちで行いました。

 411日の入院初日から約1ヵ月後の516日に名古屋市総合リハビリテーションセンターに転院し、本格的なリハビリが始まりました。入院中、病院でのリハビリメニューとは別に、以前から習っていた太極拳を毎日続けたり、病院内を散策したりしてできるだけ体を動かすように努力をしていたようです。その甲斐もあり、順調に身体の運動機能が回復し、転院して約5週間後の623日に退院することができました。



4.退院後

 GBSと診断され入院してから3ヶ月弱後の71日に職場復帰しました。とは言え、左目の動きが完治していなかったため、近所の鍼灸院での鍼治療とともに眼科での定期的な診察と目の動きの訓練を行いました。



5.おわりに

 「軸策型の重症」と診断され、「回復未定」と書かれた診断書を前に、GBSとの付き合いは長期に渡るであろうと私たち家族は覚悟しました。しかし幸いにも3ヶ月弱で職場復帰するまでに回復しました。

 市立病院での入院中は義理の両親と一緒に毎日面会に通いました。午後の面会時間の後、車の中で、義母が用意してくれたお菓子を食べながらお茶をするのが日課となりました。夫の闘病中、わずかな症状の改善を3人で喜んだり、リハビリのための転院先をどうするかを相談したり、この時間が1日で一番ほっとする時でした。どんな病気でも患者本人が一番辛いとは思いますが、それを支える家族一人ひとりの支え合いが、長期治療が見込まれる患者を支えていくのにとても大切だと思います。

 「はじめに」で、夫は今「当時よりも健康な生活」を送っていると書きました。GBSを機に喫煙をやめ、日々の食事にも関心を持ち始めました。月並みですが、健康であることに感謝し、適度な運動を心掛け、日々の食生活を大切にする生活を続けています。

                     (平成23年12月記)


 ≪ 本人からの投稿 ≫

GBSにかかっていた本人です。突然の発症から10年。お礼を申し上げる機会を逸し続け、大変恐縮しております。田丸さんはGBS闘病時の家族の大きな心の支えでした。もちろん、妻、家族の介護無しでは今の自分は無かったと大変感謝しています。ICUの中、本人がピクリとも動かない状態を見て、この後、死んでしまうのか、助かったとしても植物人間として介護していくのか、また、多大な医療費はどうすれば良いのか等々、いろいろ不安が日毎に募るばかりであったことと思います。
GBSに関して情報が無ければ、本人も家族もどのようになっていくのか、皆目見当がつかない状態であったのです。きっと、妻も家族も精神的にボロボロになっていただろう事を思うと、当ホームページは大きな支えであったのです。感謝の一言では言い表せない気持ちです。

〔 本人の症状として証言として 〕

公務員。事務職。当時42歳。入院10日ほど前、動ける程度であるが、熱を伴う風邪を引いた。いつも通り、病院は行かず熱い風呂に入り身体を温めるとか、水分を余分に摂るとかして、汗をかいて熱を下げようとしていた。入院2、3日前、熱が下がらないので病院に行き、風邪の診断を受け、薬(薬品名分からない)を処方してもらった。
入院前日、日中、職場で末梢神経に異常を感じた。タバコを吸っていて、いつもの味ではなく非常にまずく感じた。歩くのに支障はなかったが、片方の足に正座のあとのシビレのようにつま先が痺れた。その日の夜、目がグルグル回ってバランスを取るのが少々困難で、壁を使って立ってトイレとか風呂とかに行った。この時、足のシビレは無くなっていた。布団に入って、天井を見るとグルグル目が回ったが、目を閉じると治まった。入院当日、朝、目が回る症状は治まっていた。しかし、視力はいつも両眼 1.5と良い方なのだが、焦点がズレ、見難かった。左右片眼で見る分にはいつも通り問題無く見ることが出来た。他に体調に異常は感じられなかった。この日は妻を車で50分ほど運転して送ることになっていたので、慎重に運転し送ったが、2、3時間の用事を済ませ、帰る頃には、前日の様な目まいがしてきたので、やむなく運転を変わってもらった。目まいに加えバランスが取れず歩き難くなっていた。末梢神経の異常だから脳神経系と思い、脳梗塞かと思い病院に連れて行ってもらった。頭部に痛みは全く無かった。病院到着後、急患処置の先生が、症状の問診、血液検査等をして、その結果、その場で「GBS」と診断していただいた。その後、一応に処置承諾書を記入後、すぐに骨髄注射の処置をしてくれた。

その後、気付いたのは5日後との妻の話であった。気が付いたが、全く目は開かないし、体も動かない。しかし、周りで話している声だけは、はっきりと聞こえた。話していることははっきりと聞こえるのに、自分の反応ができない。もどかしかった。
その何日後かわからないが、視神経は麻痺したままではあるが、最初に瞼を動かすことが出来たので、妻や家族の問いかけに反応することが出来るようになった。これは、大きな一歩だった。脳に異常を来たしてなく話を理解し反応することを確認した妻と家族は安心したと思う。
その後は、口、腕、手、指、足といったように順に脳に近い部位から動かせることが出来るようになった。まるで、自分の身体が凍結していて、頭の方から解凍していく毎に動かせるようになっていった感じであった。
最後に残ったのは末梢神経、視神経の回復だった。

入院からリハビリを含めて3ヶ月。会社に復帰。車の運転はその後1ヶ月はしなかったが、あれから早10年、自分は何のリスクも無くGBS以前と変わらず、いや以前より健康に関心を持って健康的に生活をしています。
しかし、今も、この瞬間も、この病で苦しんでいる人がいることを改めて思い出し、少しでもこの投稿が一助となれば幸いです。

(平成28年2月記)


この闘病記は、「ギラン・バレー症候群のひろば」の管理人であった田丸務様を通し、T.N.様ご本人に転載のご意向を確認した上で、掲載しております。