緊急処置室に通され、すぐ病院着に着せ替えられ、ストレッチャーに寝かせられたまま、廊下の向かいのCTスキャン(コンピュータ断層撮影)やMRI(磁気共鳴画像)の装置が設置されている部屋に運ばれた。
その途中、私は妻に9時になったら職場の上司と同僚に電話するように、とくに同僚には私が作成していた資料の所在場所――パソコンのパスワードとファイル名――を伝えるように依頼した。
妻は呆れて、もっと大事なこと、私に言い残すことはないのかと聞いた。正直に言って、その時はこれから生死をさ迷うことになるとは思ってもいなかったし、内心そう思いたくもなかった。
脳外科のT先生をはじめ数人の医師に囲まれ、そのうちの一人の若い医師から矢継ぎ早の質問を受けた。質問の内容は他愛もないもので、私の生年月日、今日は何月何日か、ここはどこか等で、ちょっと子供扱いされたような気もした。しかし、これらの質問は脳梗塞や脳出血の場合、脳の働きがどこまで正常かを確かめるためのものだと、気をとり直し真面目に答えようとした。ところが驚いたことに、答えているうちに、意識はしっかりしているのに次第に呂律(ろれつ)が回らなくなってきた。
次に太股に大きな注射器でドスンドスンと造影剤が打ち込まれた。打ち込まれた量と同じ量――尿瓶(しびん)2本分――の尿がすぐに出た。尿瓶を押さえている自分の姿が情けなくもあった。
私は、こんなことをしたら、脳出血の場合ますます悪化するのではないか、腎臓をはじめ内臓に負担をかけるのではないかと思った。それとも、悪化するものは最初にすべて悪化させ、症状が安定したところでないと、CTスキャンやMRIを写すことができず診断もできないのかと思い、傍らにいた若い医師に真顔で聞いた。しかし、呂律の回らない私の言葉が通じなかったのか、その医師はちよっと戸惑ったような曖昧な笑みを浮かべただけだった。
意思表示ができたのもそこまでで、次第に手足の力が抜けダラーッとしていった。腕を上に挙げるように言われたが、それができず、腕を脇にしたままの姿勢でMRIの大きな円筒の中に入れられ、ガラガラと鳴り渡る不気味な音を聞いた。目を開けているのも辛くなり、静かに閉じた。
これから一体何が展開していくのか。想像もできないような事態が今展開しているのだと感じた。しかし、意識の中では気丈にも、生き延びて死の深淵を見届けてきたいと、大それたことを考えていた。
ここから、私の記憶は途切れ途切れで、つながらない。以下は、後に妻から聞いた話や、妻のダイアリーの月別一覧表に記載したメモに拠るところが多い。
脳外科のT医師は妻に、私の病状を「脳幹梗塞」と告げた。妻は、私の職場に電話するとともに、彼女の双子の姉A子さんに「軽い脳梗塞のようだ」と伝えた。妻は私の兄にも電話した。
それから次男M彦に必死で電話をしようとした。前に「今は3人家族」で、われわれ夫婦と長男T彦と一緒に住んでいると述べたが、われわれにはもう一人、次男M彦がいる。彼は7年前までわれわれと一緒に住んでいたが、横浜にある大学の医学部に通うようになってからは、自宅からは通えず、横浜にワンルームマンションを借り、そこから通うようになった。
前の年に医師の国家試験に合格し、今は研修医として実習に携わっており、一番忙しい時を過ごしている。整形外科医を目指しているが、あらゆる科の実習もしている。こんな時、妻は彼をもっとも頼りにした。妻が彼のマンションに電話したら留守電となっており、携帯電話は勤務中のために切られていた。もしもの場合にと指定されていたポケットベルにかけたところ、折返し電話があった。
M彦は「研修医が職場を外せるわけがないだろう」と素っ気なく言ったらしい。妻は、私が危ない、何でもいいから早く来てくれと懇願した。そうしたら、彼は担当の先生に相談し、夜遅くなるかも知れないが行くようにすると答えた。
それから、妻は私の入院に必要なものを買い揃えて病院に戻って来て、午後2時まで付き添ってくれた。私は目を閉じ、もうあまり話さなかった。ただ、「死ぬ時は、こうして体から力が抜けていき、だんだん動かなくなっていくのかなぁー」とポツリと言ったそうである。妻はいったん家に帰りたかったようだが、「お前、今日は帰らないでくれ、帰るなら6時にまた来てくれ」と、呂律の回らない口調で頼んだようだ。私はその時何を言ったのか、まったく覚えていない。
ただ、覚えているのは、その前、検査を終え病室に運ばれた時に、ダラーッとした自分の体が身動きできず、サンドバックのようにずっしりと重くなり、下にしている個所が痛いというより熱いように感じたことである。熱い砂浜に、あるいは熱い鉄板の上に身動きできずに置かれたような感じであった。
6時に妻が長男T彦と来ると、T医師がナースステーションに招き、CTスキャンの写真を示し病状を説明した。写真では脳はきれいで、梗塞や出血は少しも見られないが、写真に写りにくい脳幹部分に梗塞があるのではないかとし、症状から「脳幹梗塞」だと診断を下した。
しかし、妻はここで疑問点を医師に投げた。つまり、私が脳梗塞になる筈がないと言ったのだ。食事はしっかり管理しており、高血圧になるものやコレステロール値が上がるものは食べさせてはいない、休日はスポーツクラブへ行かせているし、毎年2月の人間ドックでは少し肥り過ぎで脂肪肝と言われたことはあるが、その他悪いところは全くないと、妻は言い張った。
彼は、自分も調べるが、これは脳幹梗塞でないと言い、脳幹梗塞でなければ症状が進む惧れもあるので病状を注意し見守ってほしい、何としても父を生かしてくれるようにと、その医師に頼んだ。
そんな中で今でも覚えているのは、私が奇妙な国際競技に参加し、ゴールを目指そうと必死に頑張るが、いろいろな障害物に出くわし苦しんだことで、障害物競技は何度も形を変えて現れた。
また、別の悪夢は、暗い朝重大事件を告げる暗号文のタブロイド判の新聞が配られ、それを職場のかつての上司に謎解きしてもらい、大変な事態になったと震えたことや、妻と義姉夫妻が「ここで待ってて」と言い、私を残してリフトに乗って行ったことなど、とりとめのないものであった。
現実の動きもおぼろげながら覚えている。喉に痰(たん)が絡み苦しがっていると、医師があわてて痰を吸引してくれたことや、妻が私を必死に励ましてくれたことや、医師や看護師が妻に病状を説明していたことなどを、途切れとぎれに遠い日の出来事のように覚えている。
妻は、毎日午後見舞いに来て、夜遅くまで付き添って、いろいろ話しかけた。兄夫妻も何度も見舞いに来てくれた。妻は私の片目をこじ開け、「私よ、見える」と何度も繰り返し聞いた。心配そうに覗いている顔がそこにあったが、少し目を開けただけで眩しくて目が痛くなった。
H看護師長が妻に、「ご主人は名前を呼ぶと、寝ていても体の一部が反応する。皆の言うことが分かっている節があるので、ご主人の前で話す時は、くれぐれも気をつけてください」と言った。このためか、誰も私の前で深刻な話題を口にしなかった。
入院して、三、四日目に意識は次第に回復した。最後は、医師が私の肩をたたき、起こしてくれた。その時も、私は悪夢にうなされていた。
奇妙な夢である。シーツのような白い面に片方から数字の破片がバラバラと撒かれると、それを押し返すようにもう一方からもバラバラの数字の破片が撒かれる。シーツが水面に変わり、水面の上に広がった数字の破片が押したり返したりした。それが目の前で際限なく繰り返されている。なんとかこれを止めないと、医師の呼んでいる現実の世界に戻れない。私は必死にその悪夢を振り払ったところで、意識が戻った。
後で聞いた話では、入院した翌日の明け方、私の容態が悪化し、自力による呼吸運動が困難になった。このため、人工呼吸器が用意され、そのチューブが口から気管に通された。
人工呼吸器は、人の横隔膜による呼吸運動と同じように、ある一定速度で吸ったり吐いたりする運動をする機械で、呼吸する力の弱い患者に取り付け呼吸を助ける。また、吸う時は普通の空気より濃くなるように酸素が送られる。この時の酸素濃度はかなり高く、レベル12であった。
私の呼吸と人工呼吸器とのタイミングが合わなく、神経質になった。看護師は、私の気持ちを察し、「人工呼吸器は精巧にできており、患者の呼吸する動きに併せて作動するので、マイペースで呼吸していい」と言ってくれた。
また、チューブを噛まないようにチューブには木の枠がはめてあった。意識が戻ると、この木の枠のため、口が閉められず、たえず唾液が涎(よだれ)となり、それがチューブを伝わって肺に入っていくようで、気が気でならなかった。
もちろん、食事や経管栄養はなく、点滴だけで過ごしたが、この時は何かを食べたいとか腹がすいたなどとは全く思わなかった。ただ、手持ち無沙汰という感じであった。
医師は、私の病状を「脳幹梗塞」から「多発性硬化症」と改めた。脳幹梗塞であれば、発病後これほど病状が急速に進行することはないし、頭の働きもクリアーであったためである。
多発性硬化症は、遺伝的要素が強く、ある年代になったら麻痺が何度も繰り返され、麻痺が次第に全身に及ぶという病気だそうだ。そのため、今回の私のようにある日突然全身に麻痺が起こった場合、果たしてこれが多発性硬化症と言えるかという疑問があったが………。
私は、意識が戻ってきた時、仕事のことが心配になって、どうしようもなかった。
私は、ある部門の実質上の責任者になっていた。部門全体を管理するとともに、同僚や部下と一緒に通常業務をこなし、さらに私には今難しい特命の課題を抱えており、そのことで日夜考え悩み続けていた。
緊急入院した朝、妻に職場の同僚にかけさせた電話は、その検討資料の所在場所であった。しかし、私は倒れる事態を想定していなかったので、報告書のように第三者が見て分かるような資料ではなく、私自身のための断片的な記録、メモであり、全体の動きや細かなニュアンスは私だけしか分からない。
私が突然いなくなり、どうなるのだろうか。同僚や部下は本当によく仕事をしてくれる。その彼らに突然大きな負担を押し付けることになってしまった。今の私には説明も引継ぎもできない。それぞれの問題は今どう展開しているのだろうか。次から次に悩みは際限なく広がっていく。体が動けば走って行って取り組みたい。自分の不甲斐なさ、何というテイタラクだ。ああどうなるだろう。
妻は職場に対して私の処遇を相談したところ、私は有給休暇をほとんど使っていなかったので、有給休暇のあるうちは休暇扱いとし、その後欠勤扱いとしてくれるとのことであった。妻はすぐ休暇願と診断書を職場に提出した。このリストラの時代に、仕事を投げ出してしまった私に対して本当にありがたいと心から感謝した。
職場の同僚や部下から激励の手紙、寄せ書き、写真などをいただいた。私は何の力にもなれないのに申し訳ない気持ちで一杯であった。
3.不自由
私は、まだ自分の身に何が起こったのか分からず、状況を把握するのが精一杯であった。
私の口を通し気管には人工呼吸器のチューブ、手足には点滴用のチューブ、心電図や血液中の酸素濃度を調べる器具などがとり付けてあった。私は、目も閉じたままで、話すこともできないし、手足だけでなく全身が脱力し身動きできなかった。
食事は、普通食はおろか経管栄養を胃へ流すこともできず、点滴だけに頼った。便には紙オムツが用意されたが、体に入るものが点滴だけだったせいか、1ヵ月以上も便は出なかった。尿は膀胱からのチューブを通してベッドの横にとり付けてあるビニールの袋に溜まるようになっていた。
気がつくと、ベッドに当たっている体の下の個所が痛く、熱くてならなかった。健康な状態であれば、無意識に寝返りを打てるが、今は全然体を動かせない。自分の体重が、下にしている背中や腰にドサッーとかかりっ放しになる。痛いというより熱い感じであった。
看護師が体の片方の向きを少しあげ、背中と腰に薄く柔らかいクッションを当ててくれた。その姿勢で下にしている個所が痛くなると、向きを換え直し、クッションをあて換えた。これは「体位交換」と呼ばれ、本来なら、2~3時間おきにすることになっていた。しかし、私は当初慣れなく、体の下にしている個所がすぐに痛く、熱くて我慢できずに、30分おきくらいに体位交換をしてもらった。
私は体を動かす運動神経は麻痺したが、痛さや熱さを感じる知覚神経は正常であった。
看護師や妻の話しかけは鮮明に分かった。視覚がダメなだけ聴覚が敏感であった。しかし、私から意思を伝えるのは難しかった。
声が出せないので自分から看護師を呼ぶこともできず、手が動かないのでナースコールを押すこともできなかった。看護師が声をかけてくれるのをひたすら待つしかなかった。聞かれたことに返事をする場合、わずかに動く足の親指を使うことにし、イエスの場合は右足の親指、ノーの場合は左足の親指を動かすこととした。
私が意思を伝える場合は大変だった。五十音表は見ることができず、指そうにも手を動かせなかった。そこで、看護師にアカサタナ………とゆっくり言ってもらい、該当する行で右足の親指を動かし、次にその行の五段を言ってもらい、該当する段で同じく右足の親指を動かすという方式で伝えることにした。左足の親指はもっぱら「取消し」、「元へ」を伝えた。しばらくすると、足の指が動かなくなったため、わずかに動く顔を振ることにした。該当するところで頷くように縦に振り、違う時には横に振った。
例えば、「苦しいので酸素の量を多くしてください」の場合、カ行第三段の「く」、ラ行第三段の「る」、サ行第二段の「し」……という具合である。これでは手間と時間がやたらにかかる。文章にすれば2行程度の言葉を伝えるのに1時間半もかかったこともあった。このため、必要最小限のことを大雑把にしか伝えられなかった。細かなニュアンスや含みのある言葉は無理であった。文章として伝えるのでなく、単語だけで伝えた。
先ほどの例では「苦しい、酸素」、次第に「さんそ」だけで、前後は省略した。また、「体の向きを換えてください」も「むき」だけで伝えた。
さらに、濁点や小文字や片仮名の場合も、同じようにしか表現できず、伝えにくかった。また、「ん」をアカサタナの最後に付ける看護師と、ヤ行の終りに付ける人があり、伝えるのに苦労した。
一度、体の向きを換えてもらった時、病院着がシワになり、そのシワが体重のかかる背中にあたって痛くてどうしようもなくなり、「背中がシワになっているので、シワを伸ばしてください」と言おうとしたが、どうしても伝えることができなかった。この時は、次の体位交換までただ待つしかなかった。
この時の記録を読むと、「さんそ」と何度も訴えている。苦しいが、体は動かせないため、もがくこともできなかった。苦しい中でも、とくに呼吸が苦しかった。これに対して、看護師は医師から指示されているため、酸素濃度を変えずに、痰を吸引し、「大きく深呼吸するように」と言った。
「たん」も多く訴えている。吸引機の先を鼻と口に差し込み、痰を吸い取ってもらった。この時は、口の中に溜まった涎(よだれ)は、「くち」と訴えて何度も吸引してもらった。
入ってくる情報は、新聞やテレビや雑誌などではなく、妻や看護師からの話題に限られた。
生活圏も狭いベッドの上だけに限られた。走って出勤することも、ラッシュアワーに揉まれることも、仕事をめぐっての緊張感も重圧もなく、激務に奔走することもなく、また、書斎の机に向かうことも、自宅の居間でくつろぐことも、ここには何もかもなかった。
手足が動かないことは何にもできないことであった。例えば、頬が痒くなっても、ただ耐えるだけであった。
いろいろのことに気づき気がせくが、メモをとることはおろか、ペンも握れなかった。話しかけてくれる相手に顔を向けることもできず、目を開くこともできなかった。ただ上を向きじっとしているだけであった。何時間も何時間も、否、何日も………。
そんな私に、妻は「これは神様が与えてくれた休息だと思い、ゆっくり休養しなさい」と言ってくれた。その言葉どおりジタバタしてもどうしようもなかったが、「休養」というには、中途半端であった。
それより何より、紙オムツに象徴されるように、手足の自由が利かないということは、すべてが白日のもとに晒され、ただお任せするしかなかった。「俎板の鯉」というか、「俎板のナマズ」の心境であった。そこにはプライバシーも個人の尊厳もなかった。
昨日までの生活とは一変したのだ。私には割り切って受け入れる以外に道はなかった。「世界が変わったのだから自分を変えざるをえない」と、何度も何度も自分に言い聞かせた。
しかし、分かってはいても、実際には割り切れない時もあった。夜、一人でいる時、不安が止めどもなく広がり、心を覆った。努めて楽観的に考えようとしたが、振り払う気力のない時は、悶々として一夜を過ごした。
仕事のことばかりでなく、これから自分や家族がどうなるのか、心配であった。
4.メッセージ
その週末の日曜日(6月24日)、入院して5日目に家族が集まった。妻、長男、次男、義姉夫妻、兄夫妻である。その日、私の意識が戻ったことを皆は喜んでくれた。口々に「生き延びたのだから強運だ、これからは回復して元気になるだけだ」と言って励ましてくれた。私は、本当にすまない、激励に心から応えなければならないと思った。
家族からの激励と言えば、しばらく後になってからだが、義理の姪にあたるMさんの季節感とユーモアに溢れた何通もの手紙と、同じく義理の姪Jさんが自作のホームページをプリントして送ってよこしたが、そのメルヘン調の絵と話が面白かった。
義姉A子さんが提案し、私が各自へのメッセージを言うことになった。初め私は「遺言」としたが、A子さんに「縁起でもない、皆へのメッセージにしなさい」とたしなめられた。
表現はアカサタナ方式で主に単語で伝えた。趣旨が伝われば、皆が先を言ってくれたので、どんどん先へと進めた。
皆へのメッセージの前に、妻と子供のことについて少し話しておきたい。
私と妻とは見合いで知り合った。見合いと言っても、格式ばったものでなく、知人が喫茶店でお互いを紹介し合うというものであった。
初めての出会いであまりに共通する点が多く、宿命のようなものを感じた。私は双子の弟で、妻は双子の妹であり、同じ大学を卒業していた。音楽や読書が好きなことも共通していた。妻はどこか私を惹きつける魅力をもっていた。付き合いはトントン拍子で進み、約1年後に結婚した。
子供は男の子2人を授かった。長男T彦はハンディを負っていた。いわゆる自閉症であったため、幼稚園から始まって集団生活には馴染めないところがあり、苦労させられた。今思うと、私は仕事を口実に、妻にT彦の育児、教育、就職などすべてを任せきりで、ほとんど何もしてこなかった。
T彦は、今、市の福祉関係の施設のレストランでウェイターとして働いている。素直で気立てのいい青年に育った。私が倒れた後、一家の家長としての責任を感じて彼なりに頑張っている。掃除、洗濯、食事作りなど妻の手助けもしっかりしている。
彼が書いた私への激励文は、次のとおりである。妻に読んでもらい、こんなに成長したのかと改めて驚いた。
「お父さん、これまで僕を育ててくれてありがとう。お父さんには伊豆や清里へ車で連れて行ってくれた楽しい思い出が沢山あります。僕はお父さんのいない分、頑張っています。お父さん、早く元気になってください」
次男M彦は、長男T彦と比べると、手のかからない子で、すくすくと育ち、先に述べたように、今、研修医となり、横浜に住んでいる。多忙をきわめ、生活が不規則なのが心配であった。彼に読まそうと思っていた本があったので、今回渡した。
かつて私が読んだ渡部昇一著『知的生活の方法』(正・続 講談社)の現代的改訂版『ものを考える人考えない人』(三笠書房)が最近出され、再読し面白かったので、彼に送ろうと思い書斎の机に置いていた。
話を戻そう。私から皆へ伝えようとしたメッセージは次のとおり。
妻へ
――私にはでき過ぎた妻であった。私の生涯は幸福でした。私は家庭のことを何もせず、お許しください。
(この後、妻に謝り続けることとなった)
長男T彦へ
――素直で立派な青年だ。お母さんを大切に。T彦・M彦仲よく。
次男M彦へ
――でき過ぎた子だ。体を大切に。家庭を大切に。Yさん夫妻の恩を忘れずに。T彦・M彦仲よく。
(M彦が医学部に進学するにあたって義姉Yさん夫妻の指導、支援があった。「家庭を大切に」というのは、もちろん彼はまだ独身であるが、私の反省の弁である)
義姉夫妻へ
――大変お世話になり、ありがとうございました。
兄夫妻へ
――父母の面倒をみてくれて本当にありがとうございました。大変お世話になりました。
義姉夫妻は、今住んでいる団地ができた20年前から隣合わせに住んでおり、とくに義姉A子さんは仕事帰り、毎日わが家によってくれ、休日はスポーツクラブへ一緒に行ったりしており、妻とは単なる双子の姉妹というのでなく、まさに一心同体だった。今回私が倒れたことを妻同様に心配し、毎週末に妻と一緒に見舞いに来て、励ましてくれた。
兄夫妻は、この20年ほど父母と同居し、最期まで面倒をみてくれた。とくに義姉J子さんには言葉で言い尽くせないほどのお世話になった。兄と私は双子であったので、大人になりほとんど会わなくなっても、たまに会えばお互い何を考えているか分かる仲であった。
兄夫妻は少し遠くに住んでいるが、毎週末に見舞いに来てくれた。この後、予定していた四国巡礼の旅に自動車で出かけたが、第六番札所、病気平癒の安楽寺で私の病気全快を祈願し、そのお守りを私にくれた。
私は、そのお守りを入院中ずっとベッドの柵につるしてもらった。
5.ギラン・バレー症候群
家族の集まった6月24日以降も、私の生活は、相変わらず狭いベッドの上だけに限られ、話すこともできず、全身がほとんど動かせない状態が続いたが、病状はさらに悪化した。唯一、動いていた両足の親指も次第に動かなくなり、顔を振ることもできなくなり、イエス、ノーも含め自分から意思表示が全くできなくなった。
蝋燭(ろうそく)に灯(とも)っていた最後の火が消えたような心境であった。
その頃の私から妻への伝言を読むと、「私の足の親指が動かなくなる前に、私の言うことを聞いて」と盛んに訴えている。
足の親指が動かなくなってから、看護師は「体の向きを換えましょうか」とか、「痰をとりましょうか」などと、一方的には声をかけてくれるが、その返事を求めなくなった。
看護師にとって、私は何の反応も示せない存在でしかなかった。私は空の古井戸の底に一人とり残されたようなもので、「万事窮す」であった。
ひとりの看護師は、私がかわいそうで「皆でナースステーションで泣いたんですよ」と言った。温かいお湯を大きなタライに満たして持ってきて、看護師が交代で私の足を洗ってくれた。それは、無言で整然と進められ、あたかも別れの儀式をしているようであった。表情を表すことのできない私の頬から涙が伝わった。
さらに7月3日の未明、私は喉に痰がつまり苦しんだ。医師は痰を吸引した後、それまで口から気管に通していたチューブをとり外し、喉を切開し、そこに人工呼吸器のチューブを受入れる「カニューレ」というアクリル樹脂の器具を装着した。この時、私は事態がそこまで進んだのかというショックもあったが、一方で、これで口からの唾液が涎(よだれ)となりチューブを伝わって肺に流れ込むことを心配しなくて済むようになったと、ほっとした気持ちもあった。
この後、看護師がそのカニューレとその奥の気道と口と鼻に溜まった痰を、定期的に吸引器の先を差し入れて吸引してくれた。
点滴をはじめ幾本ものチューブが、私の体にとりつけられていた。意識はしっかりとしているものの、外見上は植物人間と変わらなかった。
下がれる所まで下がってしまった。もう後がない。私の後ろには漆黒の闇が無限に広がっているようであった。これからどうなるだろうか。気持ちがここで挫けたら闇に飲み込まれてしまう。それですべては終りとなる。
私は何とか気をとり直し、次は絶対よい局面を迎えるのだと、開き直るしかなかった。しかし、底知れぬ不安が広がっていった。
私の病状を心配していた医師団は、私の脊髄から髄液を抽出し、それを検査機関に送り検査を依頼した。その検査結果が、7月4日頃医療センターへ届いた。それには、「ギラン・バレー症候群」と記され、それも劇症中の劇症と判定された。
しかし、正確には、7月4日以前であったのかも知れない。というのは、後で聞いたのだが、6月30日から7月4日にかけて、ギラン・バレー症候群の治療であるガンマ・グロブリンの第1回目の投与が行われていたからである。7月4日というのは、「ギラン・バレー症候群」であるとの診断書が発行された日付である。
ギラン・バレー症候群は、原因がはっきりしないが、疲労やストレスがたまり、免疫力が極度に低下している時に、インフルエンザや食中毒などのウイルスが体内に入った場合に(服用し体内に蓄積された薬も作用して)生じるようで、本来はウイルスを攻撃すべき血液中の抗体が狂って、ウイルスと似ている自分の末梢神経を破壊してしまうという、恐ろしい病気である。
多くの場合、末梢神経でも知覚神経は正常で、運動神経が破壊されるため、全身あるいは体の一部、とくに手足が麻痺し動かなくなる。私の場合、非常に重症で手足をはじめほぼ全身の末梢神経が破壊された。
自己の抗体が自身の身体を壊してしまうことから、「自己免疫疾患」の一種である。また、10万人に1~2人しかかからないという稀な病気で、「難病」にも指定されている。
ただ、以上の知識は、後で調べて知ったもので、この時は初めて聞く病名であり、教えてもらったわずかなことしか分からなかった。
私の病気を特定するにあたって、次男M彦も自分の大学に戻り神経系の先生に相談し、ギラン・バレー症候群ではないかと断定したようだ。
病名がギラン・バレー症候群と特定されたことから、私の主治医が脳外科のT医師から神経内科のO医師に代わった。しかし、私のいる病棟は脳外科と神経内科が一緒であったため、病室、ベッドはそのままで、脳外科の医師団の回診のさいに診察を受け、切開した喉にあてたガーゼを交換してもらうことが多かった。
ギラン・バレー症候群について、妻がインターネットで調べ、闘病記などを読みあげてくれた。
それによると、単なる疲労と誤診された人や、病名が分からず病院をたらい回しにされた例などが多くあった。病状は人により様々である。最近は、働き盛りの中高年ばかりでなく、学生など若い人もかかっており、回復には数週間から3年以上もかかる。
多くの人は回復し元の生活に戻れるが、中には、症状が残り軽い仕事しか就けなかったり、杖を必要としたりする場合もあるようだ。
私がギラン・バレー症候群で倒れたのには、思い当たる理由があった。
私は、通勤に往復4時間かかる。毎日、郊外の八王子市の外れから都心に出勤している。毎朝、6時前に起床し、いつも夜9時過ぎに、遅い時は11時以降に帰宅する。
睡眠は平均5時間程度であった。通勤時間ばかりでなく、毎日の仕事がハードであり、前述のようにこのところ難しい問題を抱え込み一人日夜悩み、追い込まれていた。
しかし、私には大きな夢があった。土日、休日、早く帰れた帰宅後は、金融と銀行に関する研究に没頭した。自分の仕事に関係した研究をし、それが夢の実現につながれば、これに勝る幸福はない。
私は、若い時から金融史、金融システム、金融政策、金融行政、銀行業務、最近ではバブル経済崩壊後の不良債権問題など金融・銀行に関する新聞、雑誌、専門誌の解説記事、論文、本、資料を徹底的に読んで分析整理し、積み重ねていた。さらに、私には銀行関係者から生きた情報が入り、比較検討することができた。
論文を読む時は、自分であればこのテーマについてどう思うかを、著者と対決するつもりでいつも読んで考えていた。
職場で後援する研究会の学者の方々にも懇意にしていただいた。学会の動向や課題もつかむことができた。
そのお蔭で、立教大学、千葉商科大学、法政大学で土曜日に非常勤講師として銀行論の講義を合わせて6期受け持たせてもらった。もちろん、職場の了解を得てである。
講義では「いま、なぜ銀行か」から始まり、テレビや新聞で報道されている現実の問題と関連させ、情熱を注いで進めた。一人でも多くの学生に生きた金融、銀行を動態的に捉え考えてほしかった。
いずれの大学でも階段教室に学生が多く集まった。巷間言われているのとは違い、学生は熱心に授業に参加してくれた。講義で十分に触れられなかったことまで言及した答案を書いた学生や、非常勤講師の私に論文を提出してくれた学生もいた。
いつも最終講義は拍手で送られた。私は大学で講義することが喜びであった。
定年前で仕事に区切りがついた時、都内の大学に金融論の教授として転職することは、私にとって「夢のまた夢」であった。
銀行に関する著書も3冊著した。本を執筆する時は、それこそ土日、休日はもちろん、平日も空いている時間があれば、まさに時間を盗むようにしてとり組んだ。最近著した本は『新版・現代の銀行』(財経詳報社)で、3年ほど前になる。
その頃書店で立ち読みしていたら、週刊『エコノミスト』(毎日新聞社)の書評欄で、あのテレビで活躍している斎藤精一郎教授が私の本を大きくとり上げていたのを知り、感激したことがあった。
書斎にこもり、クラシック音楽を聴きながら資料をまとめたり、書くことに没頭している時は、私にとってまさに至福の時であった。
今年は非常勤講師をしていなかったが、金融の資料は読んで整理していた。むしろ、別な読書に駆り立てられていた。小説に夢中になり、司馬遼太郎、藤沢周平、浅田次郎、初期の胡桃沢耕二、軽いところでは宮部みゆきなどの小説を、通勤時などに2、3日に一冊の割合で読んでいた。
それから、妻に叱られたが、終業後、同僚や部下とよく酒を飲んだ。それも一流の店で上品に飲むというのでなく、神田界隈の大衆的な店で、時にはガブ飲みするという類であった。
話を戻そう。私は、とにかく忙しかった。満たされない何かを追い求めるように、いつも心は駆り立てられていた。倒れる前の土日に、妻と長男と義姉夫妻と車を運転し、清里へ出かけた。リゾートマンションを基点に蓼科に行ったり、温泉に入ったり、360度ホールで天体を眺めたりして楽しんだが、それに加え、私は一人朝早く起きて持参した仕事をした。
本当に、私は好き勝手なことをして、体を酷使していた。
また、花粉症で悩まされていたが、この20年近くは、ステロイド系の薬を常用していた。倒れる1週間ほど前、夜中に咳が出てほとんど眠れなかった。とくに、咳が喉の奥から出るようになり、喘息を起こしたような状態であった。
このような過労やストレスによる免疫力の低下、服用していた薬の蓄積、ウイルスの侵入などが重なって、ギラン・バレー症候群に倒れたのではないかと、私は思う。
妻は、私に対して、元気になっても今のような忙しい生活を繰り返すのかと盛んに聞いた。
「私とは一日15分も顔をしっかり見合わせて話し合う時間がなかったのですよ。もっと落ちついた生活をし、長男T彦のことを考え、家庭を大切にするつもりはないのですか」と。
妻の一言ひとことが胸を衝いた。私の意識はいつも外を向き、一人忙しがり、自分の本来すべきことに目を覆っていたのではないか。「落ちついた生活をしたい」と答えた。仕事のことが何度も頭に浮かんでくるが、私の考えを変えなければならない時が来たのだ。
「仕事人間」「仕事の虫」「仕事師」「仕事の鬼」………今の私はこれらの言葉から離れなければならい。苦しい、苦しい………今の苦境から早く脱したい。私は全快したら、健康管理に心掛け、家庭生活を大切にしよう。体重は65キロ以下を維持し、就寝は11時前を守ろう。毎日、家庭、妻、長男のことを考え、尽くそう。地域社会、福祉にも。
病名が特定されると、妻は手際がよかった。新たな診断書を発行してもらい、それを職場に提出した。職場では何度も見舞いに来たいとの話があったが、私のいる病室が「重病人室」で、入れる人は身内に限られ、私の病状が安定するまではとても見舞い客を迎えられる状況でなかったことから、丁重にお断りした。
私は、できることなら、病気を隠しておきたかった。しかし、牧村夫人や早稲田大学の高野先生はじめ私の友人の一部に知られ、お見舞いの申し出を受けたが、それも心ならずも丁重にお断りした。
牧村氏は、私がまだ三十代の時に職場の役員をされていた方で、『地方銀行』(教育社)を執筆するにあたり、私を共著者としてくださった。その後専修大学教授になられたが、引き続きご指導いただき、家族ぐるみで懇意にさせていただいた。
牧村氏は、惜しくも2年ほど前(平成11年)に亡くなられたが、今回奥様が私のことを心配してくださった。
早稲田大学の高野先生は、私が国際業務室長をしていた時、在日米銀の東京支店長をされ、その時に知り合った。その後早稲田大学大学院の先生をされた後も、懇意にしていただき、今回私を励ますとともに妻に電話で優しい言葉をかけてくださった。
見舞いに来られるというのではないが、(財)ひょうご経済研究所の長濱さんから何度も激励の手紙とお見舞いをいただいた。彼とは、1975年(昭和50年)夏に米国夏期ビジネス講座で州立ワシントン大学に学んだ仲である。彼はK大学の非常勤講師をしており、私と資料と情報を交換していた。
妻は、私あての手紙や電話をうまく処理してくれているが、私の交友関係が分からず、非常に困ったようだ。それらは私の頭の中にあり、きちんと整理したものがないからである。
また、妻は私が入院するとすぐに、私の愛読していた日経新聞の購読をやめ、私が土日や休日に通っていたスポーツクラブの脱会手続をとった。
その代わり、妻は毎日見舞いに来た時に、別の新聞の主だった記事を知らせるとともに、投書欄やいくつかのコラムを読み上げてくれた。私は情報から疎外されていたので、干天の慈雨のようにありがたかった。
また、妻は主治医のO先生にもお願いし、私の病状に関しては私の前ですべて話しオープンにした。妻は私に何度も「必ず治る病気だから」と勇気づけてくれた。
6.血漿交換
私のいる病室は、南に面した建物の2階にある脳外科と神経内科を一緒にした病棟の、ナースステーションに隣接した260号室であり、医師、看護師の目の一番届くところにあった。私のような重症な患者が男女を問わず6人いた。
病気が回復するに従い、この260号室からナースステーションに遠い、男女別の261~6号へ移された。また、この260号室からICU(集中治療室)に行き、不幸にも帰って来ない患者もいた。私も何人かの人をお送りした。ほとんどの重症患者は、この260号室に1~2週間しかいなかった。
そこで、ここでは便宜的に260号室を「重病人室」と呼ぶことにする。改めて言うが、病院としてはそう呼んでいない。なお、看護師は261~6号の一般病室6部屋を併せて「大部屋」と呼んでいた。
この脳外科と神経内科を一緒にした病棟の看護師は3班に分かれ、この260号室(「重病人室」)と、261~6号室(「大部屋」)と、9室の個室を分担し、4ヵ月ごとのローテーションとなっていた。つまり、この260号室だけで一班が受け持っていて、もっとも手厚い看護を受けた。
しかし、以上の病室や看護師の体制については、後で段々と分かってきたことであり、この時の私はまだ目も見えず、狭いベッドにただ横たわっているだけであった。
当初、妻は私が最期を迎えるかも知れないので、せめて個室に入れたいと希望したが、H看護師長はそれに答えず、私をこの「重病人室」に入れた。看護師の目が一番行き届くためであった。その後、個室が空いても、私はここに居続けることとなった。入院が長期化する見通しのもとで、個室の1日当たり1万5000円の差額ベッド代を払わなくても済むことは助かった。
この頃の私は、同じ病室の他の患者の様子は分からなかったが、私の様子がおかしくなりナースコールで看護師を呼べなかったため、隣の患者や介護に来た家族が気づいてナースコールを押してくれて助かったことが、何度かあった。
私は「重病人室」の窓側のベッドに長くいることになった。窓側が若干広く、人工呼吸器を置けたためである。
病名が特定できてから、採血や採尿などの検査を経て、ギラン・バレー症候群の治療である「血漿交換」が行われた。この血漿交換を行う機械は、人工透析を行う機械に似ているが、大掛かりで、高度の医療設備の揃った病院にしか置かれていなかった。
血漿交換というのは、足の大静脈に二股の太い注射器を刺し、人工透析のように、一方から血液を取り出し、その血液中の血漿部分を交換してから、もう一方の管から大静脈に戻すものである。
この交換は、末梢神経を破壊した抗体の入っている自身の血漿を取り出し、献血などから集めた正常な血漿を戻し入れるもので、大きなビニール袋一杯の血漿を交換するのに約3時間かけて行われた。何回も血漿交換が行われたので、太い注射針は足の付け根に固定されたままであった。交換中、検査技師が付ききりで血圧の動きを調べていた。
この血漿交換についても後で仕入れた知識であり、この時は足の付け根に固定された注射針を通して血液が交換されているということしか分からなかった。
また、血漿交換は自身の誤った抗体が末梢神経の破壊を止めようとする治療で、麻痺した機能を回復させるものではないが、その時は漠然とギラン・バレー症候群に対する進んだ治療を受けているとしか理解していなかった。
この血漿交換の治療は、いわば体中の血液を交換するようなもので、体力をかなり消耗し、抵抗力を失わせた。治療を受けている間、血圧は大きく変動し、終った後は、ただ、ただ苦しく疲れた。体が熱かったり、寒かったりもした。血漿交換のあった夜は、体が興奮し、ほとんど眠れなかった。
私は、入院以来、昏睡状態は別として、夜は浅い眠りにしかつけなかった。看護師が夜間2、3時間おきに体の向きを替えにきてくれたこともあるが、一日中ベッドに横たわって目を閉じていたので、夜になったからといって眠くはならなかった。
血漿交換は2、3日実施し、休みを入れ、また実施するという具合で、7月は11日、12日、13日、16日、17日、23日、24日と、合計7回実施した。妻の話によると、O先生は「抗体が悪性でなかなか取り除けない」と言っいたという。
血漿交換は、ICU(集中治療室)で行われたため、ベッドごと重病人室からICUに移動した。治療が続いた日はICUに泊まることになっていたが、ICUが混んでいる場合には病室に戻ることになり、結局、病室からICUに日参することが多かった。
この血漿交換が行われている間、私の体力は消耗していった。
栄養も点滴だけに頼っていた。血漿交換や栄養の点滴ばかりでなく、やたらに点滴を受けているが、一方で採血されるので、体中が自分の血液から点滴液に置き換わるのではないかと思った。
点滴を受けている期間とこの後の経管栄養を受けている期間を通して、私の体は痩せ続けた。76キロあった体重が40キロ近くなった。骨と皮ばかりとなり、アバラ骨が現われ、かつての三段腹はペシャンコになり、腹の皮は背中につき、手足は筋肉がなくなり皮がたるんで、そのシワクチャな様子がまるで干し大根のようだと妻は言った。
妻は、私が肥り過ぎで脂肪肝であったことから、医師と看護師に私を減量させるように頼んでいたが、これほどまで痩せ衰え、衰弱するとは、思っていなかったようだ。
後で、医師に点滴だけで1ヵ月間もよく命がもったものだと言ったら、その医師は点滴だけでも半年以上生きている例があると言った。しかし、点滴だけで体力が回復してくる例が果たしてあるのだろうか。体力のあるうちに早く経管栄養へ、さらに食事へとする必要があるのではなかろうか。
ただ、減量についての私の考えは直された。私の肺の機能は6、7割に落ちているのをはじめ、内臓の機能が全体的に落ちているのに、体重が従来どおりでは体が持ちこたえられなかったのだ。やはり体重を落とすべきであると。
何も口にせず点滴を受けていても、空腹はそれほど感じなかったが、やたらに喉が渇いた。看護師は、医師に止められていたので、氷の欠片(かけら)を一つしかくれなかった。何度かお願いすると、看護師によっては、あと二欠片をそっと渡してくれた。
雪や氷に覆われた岩の間から冷たい水が勢いよく流れ出てくる、大滝秀治のテレビコマーシャル、「南アルプス………天然水」が、目の前に現われた。絶対元気になり、冷たい水をお腹を壊すほど思いきり飲んでやろうと思った。
あの時は、体が水分を求めていたのではないだろうか。その証拠に、点滴から経管栄養に替わり、経管栄養と一緒に毎回300CCの水が「補水」として胃に流し込まれるようになってからは、氷がほしいと思ったことは一度もなかった。
入院してから1ヵ月以上過ぎた7月23日に、点滴から経管栄養に切り替わった。「経管栄養」とは、粉末の栄養剤を水に溶かし、チューブを通して点滴のように少しずつ鼻から胃へ流し込むものである。
ある看護師は、「これからは点滴からお食事になったのよ。さあ、食べましょう」と声をかけてくれた。何か子供に返り、野山にピクニックに出かけて弁当を開いているようだった。しかし、そこには経管栄養のチューブが胃に流してあるだけで、味も何もなかった。ただ、私にはその様子がおかしく嬉しかった。
この経管栄養は、11月後半まで続いた。
一方で、病状の回復も見られた。この頃両目がうっすらと開き、左手の薬指が微かに動くようになった。目が開いたと言っても、あたりの様子がかすかに見えるだけであったが。
しかし、私にとっては嬉しかった。入院以来悪化の一途を辿っていた病状が、初めて回復に向かったのだ。私の待っていた局面は「吉」と出たのだ。私は「これからはただ回復するだけだ」と何度も唱え、健康が回復していく様を一生懸命イメージした。
だが、しかし、………。
7.2回目の危機
血漿交換が始まって以来、私の体力は消耗し、抵抗力は低下していったが、7回目の血漿交換の行われた後の7月28日、弱っていた肺が肺炎から敗血症を起こし、昏睡状態に陥った。敗血症というのは、細菌が血液を通して体中に回り始めることで、大抵の場合、多臓器不全につながり命を落とす。
7月28日は土曜日で、妻と長男T彦、義姉夫妻は、横浜から来る次男M彦と待ち合わせため、いつもより遅く夕方に病室を訪れた。しかし、私の周りに看護師が集まり、医師が呼ばれ、ただならぬ様子だった。
家族は病室の外に出され、私はすぐにベッドごとICU(集中治療室)に運ばれた。兄夫妻も連絡を受け夜に駆けつけた。M彦は帰りを急いでいたが、翌日曜日の未明まで私を見届け、いったん横浜のマンションに戻り荷物を整え、ふたたび病院に来た。
私の血圧は急速に下がり、上の値が危険と言われている60を割り、さらに30まで下がり、呼吸する力も弱まった。
医師団は懸命に救命措置を施した。人工呼吸器で酸素を供給するだけでなく、ドパーミンなど複数の強い昇圧剤を点滴し血圧を上げ、大量の抗生物質やステロイド剤を投与した。腎臓も機能が低下したため人工透析を行うなどの措置を行ったという。
血圧は30で下げ止まった。いくら強い昇圧剤でも、1時間以上投与すると効かなくなり、体ももたなくなる。その1時間ほど間、血圧は30で低迷した。それからフラフラと上向いていて翌朝までに何とか60~80まで戻った。しかし、その後も危篤状況は繰り返された。
後で聞いたが、血圧が30まで低下したのに生きていたのが、まさに奇跡で信じられなかったという。しかも1時間も。脳障害も起こさなかったことも。
O先生は、その時がいつ来るか分からないが、非常に難しいと言った。誰も、次男M彦ももうダメだと思ったらしい。妻もその時に備えていろいろ考えたという。医師団は、家族の家が八王子医療センターの近くであるのにもかかわらず、病院内で待機するように指示した。
その日、妻と義姉夫妻、兄夫妻、長男は八王子医療センターの家族控室の長椅子に仮眠し、さらに29日、日曜日一日中、控室で皆集まり待機した。
その夜も妻と義姉夫妻はそこに仮眠し、月曜日そこから出勤し、私の意識の戻るまで付き添った。また、次男M彦は、研修医として難しかったようだが、一週間の休暇を何とかとり、毎日妻と一緒に医療センター来て付き添った。
私はといえば、昏睡状態に陥り、前後の記憶が全くない。やはり苦しさにうめき、悪夢にうなされていた。少し意識が戻り始めた頃、体が地表スレスレの高さで移動し、落ち葉やゴミが目に入りそうになった夢や、熱のためか目の前でコンピュータグラフィックのような画面が展開した。ネジのようなものが整然と並び、それが近づいたり遠ざかったりするうちに、ネジの列が点と線になり、それが放射線や曲線などに形を変えて、近づいたり遠ざかったりし、いつ終るともなく繰り返された。
7月30日、月曜日に私の意識は戻ったが、朦朧としていた。雪の林の向こうで、数人の人が立ち話をしているようだった。それが、O先生が妻に話しかけているのだと分かった。O先生は「一命はとりとめた。もう大丈夫だろう」と言った。
病状や処置について医学的な知識はないが、後で話を聞けば聞くほど、本当に危ないところだったと思う。その時は、ただ今回も助けていただいた、生きることができたと感謝の気持ちで一杯であった。この病院に、医師の方々に、見舞いの家族に、それより何か知らない大きな力に。
O先生は、夏期休暇に入るので、その後、主治医を同じく神経内科のN先生に引継いだが、O先生は私の病状が心配で毎日電話で連絡をとっていた。N先生は温厚で親切な人で、その後もO先生とともに私の面倒をみてくれた。
家族がICU(集中治療室)へ入室するにあたって、管理が厳重であった。面会には、医師の着るような白い上着を着、マスク、帽子を被ることが求められた。私は、いる筈のない次男M彦の声がして、白いマスクと帽子をして医師と並んでいる姿がかすかに見えたので、その姿が夢の中で何度も場面を変えて現われた。
「重病人室」の看護師が、交代の時間に二人連れ立ってICUにいる私のところに見舞いに来てくれた。「早く元気になり、部屋に戻って来てください」と言ってくれた。本当に嬉しかった。しかし、意識が朦朧としていたためか、彼女達が入口からでなく、壁をカーテンのように押し開け、「近道を通ってきた」と言った。カーテンの後ろには、薄暗い倉庫のような通路があった。しかし、よく考えてみると、そんな近道はなく、第一に私の目はうっすらとしか見えない筈だった。やはり、どうかしていたのだろう。
また、ICUにいた朝、桑田圭祐の『TSUNAMI』という曲が聞こえたが、それが壊れたテープレコーダーのように何度も何度も、時間にして30分以上も繰り返され、一向に止まる気配がなかった。半分意識は覚め、看護師が話しかけているのは分かった。
私は冷静に考えた。この曲は、確か数日前、重病人室にいた時斜め向かいの患者にその家族が聞かせていた曲だ。以前何かの本で読んだが、人間の記憶力は凄く、一度聞いたものは何でも記憶されるが、体系的に必要な時にうまく引き出せない、それができれば天才になれると。今の私は、その逆で、頭の回線が混線し、不必要なものが止めどなく繰り返される状態か。結局、熱か何かにより頭の働きが狂っているのではないだろうか。そこまで考えついた時、曲は止まった。
看護師は「夢でも見ているのですか」と聞いた。これは、夢だったのか、現実だったのか。
私は、ICUにいる間、苦しく、このように意識が混濁し、夢と現実の間を行き来していた。ただ、今回も俗に言う臨死体験はなかった。
ICUは治療に専念したため、体の向きを規則的に変えることはなおざりになった。そのため、背中の腰近くに「褥瘡(じょくそう)」(=床擦れ)ができた。そのうえ、体調が最低であったことから、後頭部に円形脱毛症ができた。また、わずかの期間であったが、踵(かかと)にも褥瘡ができたり、顔面の筋肉がゆるんだため顎(あご)が外れたりもした。
それでも、8月6日、ICUを出ることとなった。ICUのS先生が、「ここを出られるまで元気になり、とにかくよかった。おめでとう」と言ってくれた。
8.「とうに二十を過ぎたというのに」
8月6日、9日ぶりにICU(集中治療室)から「重病人室」に戻った。妻は、病室の入口やベッドにあった私の名札が外されていたことに憤慨していた。その前に、私の荷物もすべてまとめられ、部屋から持ち出すように言われていた。やはり、私がこの病室を出てICUに移された時、ふたたび戻ってくることはないと見られていたのだろう。
また、理髪師が入院患者のために出張して理髪に来る制度があるので、妻がナースステーションに私の理髪代を預けお願いしていたが、私がICUに移る時、看護師のSさんが「当分難しいから」と、理髪代を妻に返却した。
O先生は、「肺炎が完治し体力がついてから血漿交換を再開しよう。8月一杯は、血漿交換を休もう」と言った。
肺炎は続いていた。レントゲン写真では、肺は真っ白で、何箇所か炎症が巣のように写っており、肺の下部には水が溜まっていたという。
血漿交換の代わりに、「ガンマ・グロブリン」という治療薬の投与が、7日から11日にかけて5日間行われた。毎回、20本近くのビンに入った薬をつなぎ合わせて約3時間かけて点滴した。苦しくなることも夜眠れなくなることもなかった。ガンマ・グロブリンは30日から7月4は日にかけても投与されており、今回は2クール目であった。
ガンマ・グロブリンは、近年(2000年)認可されたもので、血液から集められた抗体を大量に投与する治療である。血漿交換同様、自身の抗体が抹消神経を破壊するのを抑制する作用があるという。しかし、血漿交換のような大掛りな設備を必要とせずに同様な効果があることから、最近ではギラン・バレー症候群の治療として多く用いらるようになっている。
もっとも、これらの知識も後で仕入れたものである。
このガンマ・グロブリンの他、肺炎治療のため抗生物質やステロイド剤が投与されていたので、引き続き多くの点滴を受けていた。
一方で、私はだんだん様子も掴め、病院生活にも慣れてきた。目も次第に見え始め、足の親指もふたたび動かせ、顔も左右に動かせるようになった。
「重病人室」は、男女一緒の6人部屋で、薄緑色のカーテンで仕切られているが、昼間は隣のナースステーションからガラス越しに監視できるように、カーテンは開けられていた。私のベッドはナースステーションの反対側の、人工呼吸器がおけるスペースのある南の窓側に置かれていた。
ここにいる患者は、脳梗塞などの重病人ばかりで、ほとんど寝たっきりで、言うこともはっきりしない患者か、私のように口もきけない患者であり、患者同士で話すことはなかった。
私は何もすることがない時は、窓の外か、天井か、点滴を入れたバッグや器をボォーと眺めていた。窓の外は、寝たままの姿勢では空しか見えなかった。
この頃の私の日課は、
6:00 起床(点灯・ブラインド、カーテン開く)
必要な時は採血
7:00 補水・経管栄養(朝食代わり)
顔を拭く・歯磨き
清拭・衣類の着せ替え
医師の回診
12:00 経管栄養・補水(昼食代わり)
必要な時レントゲン撮影等検査
リハビリ
18:00 経管栄養・補水(夕食代わり)
21:00 消灯
「採血」のある日はいやだった。私は血管が出にくく、何度も注射器を刺し直されたことがあったからである。起き抜けに、これをされたら堪らない。
「レントゲン撮影」も苦手であった。レントゲン技師が撮影機をベッドまで持ってきて、フィルム板を背中の下に押し込み撮影した。押し込む時、痩せた背中が痛かった。
「清拭(せいしき)」とは、手の利かない人に、毎朝看護師が二人がかりで蒸しタオルで体すべてを拭いてくれるもので、気持ちがよかった。この時、衣類をすべて着せ替えてもらった。大事なところは、下に紙オムツを広げ、お湯と石鹸で優しく洗ってくれた。こんな時にあらぬことを想像するのは、不埒であろうか。ただし、プライバシーや個人の尊厳に拘らないことである。
回復に向け、いろいろな方策が施された。
O先生が手配してくれ、この頃から土日を除く夕方、手足のリハビリが始まった。理学療法室のT先生が病室に来て、ベッドにいる私の手足を限度一杯伸ばしたり曲げたりした。手足の関節が拘縮する(=硬く固まる)のを防ぐためと、筋力運動であった。
ベッドから車椅子に乗る訓練も始まった。O先生が「車椅子に移る訓練を始めよう」と言った時、私は全身がほとんど麻痺したままなので、どのように移るのか想像がつかなかった。
8月16日、初めて車椅子に移してもらった。体の下にバスタオルを敷いて、看護師、看護助手4人がかりでそのバスタオルごと移した。
その車椅子はベッドを小型化したようなもので、最初寝た格好で移し、それから角度を上げたが、60度どまりであった。それでも15分程度車椅子に座っているだけで苦しくなり、ベッドに戻してもらった。
寝ていた時は水平に循環していた血液が、体を起こすことにより縦に循環するようになり、体全体がそれに対応しなければならなかったため、苦しくなったのであろう。
医師や看護師は「頭がボーッとしないか」、「気分が悪くならないか」と盛んに聞いたが、そんなことはなかった。ただ体が全体的に苦しかった。
この車椅子は移動用ではなく、普通の車椅子に乗る前段階のもので、9月下旬に普通の車椅子に乗るまで、10回程度乗せてもらった。その都度看護師、看護助手の手を煩わせた。
8月23日夜、お風呂に入れてもらった。毎日清拭をしていたが、お風呂に入り体をよく洗ってもらった方が、汗も落とせサッパリするだろうという配慮からである。
風呂場に連れて行くことが難しいことから、夕食時の後、隣のベッドを室外に移し、広いスペースを確保し、カーテンで仕切った。そこにビニールの子供用プールを広げ、バケツでお湯を何杯も運び入れ満たした。私には人工呼吸器が付いているため、N先生も付き添ってくれた。看護師、看護助手が4、5人がかりで私を裸にしお湯に入れ、髪の毛から体全体を徹底的に洗ってくれた。お湯を途中で熱いものに入れ替えた。お湯に沈まないように頭を持ち上げ、耳栓もした。約2ヵ月ぶりのお風呂である。本当に気持ちがよかった。
しかし、あまりにも大掛かりで、時間もたっぷりかかった。お湯から引き上げられてバスタオルで体を拭いてもらった時には、久しぶりだったことと体力がなかったため、すっかり湯当たりしフラフラであった。
「どうでした。気持ちよかったですか」という問いに対する私のアカサタナ方式の返事は「熱い、うちわと水枕を」であった。
どんな長湯の人も湯船に40分も入っていられないだろう。次のお湯は15分以内かシャワーにしてくださいと伝えた。伝えているうちに寝入ってしまった。明け方まで深い眠りに入り、看護師が体の向きを替えようとして声をかけても起きなかったそうである。
これだけ総掛りで、風呂に入れていただいたのに、何と勝手なことを言ってしまったことか、深く反省し、翌日最初に会った看護師にお詫びとお礼を言い、他の方にも伝えるようにお願いした。
風呂は、2週後、同じようにビニールのプールに入れてもらったが、その後は、週に1、2回程度、ストレッチャーに乗せて風呂場に運ばれ、そのままシャワーを浴び、洗ってもらった。車椅子に座れるようになってからは、部屋で裸にしてシャワーチェアに座らせ、バスタオルに包まれ風呂場に運ばれた。
目が少しずつ見えるようになったことから、それまで声で想像していた看護師の姿が分かってきた。ほとんどの場合、想像していたイメージと違った。親身に相談に乗ってくれた看護師は、もっと肥ったオバさんタイプかと思っていたら背の高い素敵な方だった。
この頃はまだナースコールを押せなかったので、看護師が通りかかるのを待って、頭を左右に振って呼ぶこととした。大抵の場合、看護師が用件をいくつかをあげて聞くのに対して私がイエス、ノーで返事をしたが、アカサタナ方式で意思を伝えることもあった。
この時は首が振れるようになったので、イエスの場合には縦に振り、ノーの場合には横に振った。こちらから用件を伝える時は、アカサタナとゆっくり言ってもらい、首を縦に振るという方法である。
今思い出すと、仕事とはいえ、看護師の皆が本当に辛抱強く相手をしてくれたと、感謝している。看護師によっては、私の伝える一文字ひともじをボールペンで手のひらに書いて、読みあげ確認をとりながら進めた。眠れない夜などは、私を担当していたSさんは今後のことについて、私の質問をアカサタナ方式で辛抱強く聞き、相談に乗ってくれた。
私が看護師に聞いたのは、「これからどうなるか」などちょっと答に窮する質問や、「喉に装着したカニューレと痰の吸引の仕組み」など、いろいろであった。Sさんは、私が仕事に早く戻らなければならないと伝えたのに対して、「あなたはもう普通の生活に戻れない。ベッドで寝たっきりになることも考えた方がいい」というようなことを遠まわし言ってくれた。
妻はイエス、ノーで答えられる質問しかせず、アカサタナ方式は、疲れているからと言って避けた。代わって、Nさんが一時間半かけて私の言いたいことを聞き取り、翌日妻に伝えてくれたこともあった。
また、ある日リハビリのT先生が回って来ないことを看護師のKさんに告げると、「仕事が一段落するまで待って」と言って、夜10時過ぎに私のベッドに来て、説明書を広げ、それを見ながらリハビリをしてくれたこともあった。
この医療センターで世話になった看護師は、入院時に「重病人室」を担当していた6人の看護師をはじめ、皆よく笑い、性格が明るく、優しく、もちろん医療上の知識も詳しく、献身的に尽くしてくれた。妻の話では、6月頃日本テレビの朝の番組で、もっとも患者に優しい看護師がいる病院のランキングが放送され、その全国第1位が、この八王子医療センターであったという。
塞ぎこんでいる時に話題を見つけて話しかけるのも、実にうまかった。その中のいくつかは、今でも覚えている。
Sさんの話
「連休に埼玉県の実家に帰ったらかわいい姪が来ていた。声をかけたら泣かれたので、抱き上げてあやしたら、もっと大きな声で泣かれた。半年前には違ったのに、年に何回かしか会わないと、知らない人になってしまうのね」
Kさんの話
「父は、私が小さい時、家族中で動物園に行くのが好きだった。この前久しぶりに実家に帰ったら、私がとうに二十(はたち)を越したというのに、翌日父は私を動物園に連れて行ったんですよ」
Nさんの話
「しし座流星群の降った日、飼っていた犬が家出して大騒ぎして捜した。数日後帰ってきたが、怯え震えていた」(私は、犬が震えるのを見たことがないが、しし座流星群の降るのを見る機会も逸してしまった)
9.花火の夜
8月31日に看護師有志主催で花火大会を開催するので、是非参加してくださいとの案内をもらった。花火大会は、毎年8月の終り頃、看護師が入院患者のために開催しているという。
私は、病室からICU(集中治療室)にはベッドごと運ばれたことはあるが、病棟の外には出たことはないし、体には人工呼吸器も付いているので、花火大会に参加するのは無理だと思っていた。そうしたら、N先生が「花火大会に参加しよう。その前にベッドごと散歩に出かける訓練を2、3回しようか」と言った。
実際、8月の終りも近づいた27日の夕方、日中の暑さも峠を越し凌ぎやすい風が吹き始めた時刻に、外に出かけることとなった。N先生と看護師二人と妻とに付き添われ、ベッドごと人工呼吸器も一緒にゴロゴロ押しながら、病室から廊下、エレベーター、通用口から外へと散歩に出かけた。
2ヵ月ぶりに肌に感じる大気、白い雲の浮かんでいる大空は新鮮だった。雲を意外に近くに感じた。木や草は緑に茂り輝いていた。N先生は、病棟から数百メートル離れた遊歩道の入口でベッドを止めた。
そこは高台で町並みや向かいの山も望むことができた。私は、外に出られた喜びを噛みしめた。私達はしばらくそこにいた。そこから引き返すにあたり、N先生は「記念に」と言って、そこにあったエノコログサの穂と葉を折って私にくれた。
もう一度、28日の夕方、同じようにベッドごと人工呼吸器も一緒に散歩に連れ出してくれた。その時は遊歩道を一周した。私はまたも外の大気と自然を満喫できた。
ベッドごと、それも人工呼吸器ごとの散歩というのは、極めて稀である。私は、その後も他の患者がベッドごと散歩する姿を見たことがない。
その散歩の時に気がついたのだが、私は目が見えるようになったのだ。像が二重ではなく、一つになって、はっきりと。翌朝、回診の医師が示した指の本数も分かり、ゆっくりと左右に動かすボールペンも追うことができた。
そして、8月末日、いよいよ花火大会の日を迎えた。会場は病院の脇の広場であった。大会といっても、隅田川で開催されるような本格的な花火ではなく、玩具屋で売っている花火を持ちより、皆で楽しもうというものである。妻は、長男T彦も是非連れてきて見せてやりたいと、花火を買って参加した。
7時半に始まる予定だったが、N先生が「少し早めに行き、良い場所を確保しようか」と言い、看護師に声をかけた。Kさんは非番であったが、私服で私のベッドを引いてくれた。Kさんは、病院に併設されている看護師寮にいた。
輪の中心には花火を持っている看護師がいて、その周りには見物する患者60~70人が輪になっていたが、立っている人と車椅子の人だけで、ベッドごと参加したのは私一人であった。私達は花火の煙を避け、風上に回った。ベッドを少し起こしてもらった。
7時には沢山の患者が集まったので、予定より30分早く始まった。看護師の手にした花火の先がパチパチと音を立てながら白い煙の中に青白い閃光を輝かせ、その光が赤や青に変わっていった。次から次へと花火が点火されていった。その度に静かな歓声があがった。線香花火やねずみ花火のような、近くの人しか見られない花火は少なかった。
T彦も輪の中心に入り、花火に点火していた。打ち上げ花火も空高くあげられ、いくつもの輪を広げ、幾重にも色が変わっていった。
いつ果てるともない花火を見入った。幸福感に包まれた。長い時間のようでもあったし、瞬く間に終ったようでもあった。この夜の出来事は、長く心に刻まれた。
後で妻から聞いた話では、N先生が看護師に、私がこの病室を出られそうもないので、せめて花火でも見せてあげようと、言ったという。同じ病室から花火に参加させてもらったのは私一人であったし、当直の看護師だけだと忙しいからと、非番の看護師Kさんまで私の参加を手伝ってくれたのだ。
話は戻るが、8月26日、私は運命の悪戯に嘆いた。
その日、牧村夫人から私あてに電話があり、妻が代わりにとった。牧村夫人の弟、TさんがM大学の日本経済論の教授をされており、その方にも親しくさせていただいていが、私をその大学の正規の先生に推薦しようとするものであった。
私のことを心にかけてくださったのだ。定年を間近に控え、仕事に区切りをつけ、大学の教授に転職することは、私にとって「夢のまた夢」であった。週に何度か大学に通い、情熱をもって講義し、あとは書斎にこもり好きな研究に没頭し、余暇も楽しむことができる。長年夢に描いていたその機会が本当に訪れようとしているのだ。
しかし、しかし、私は今寝たっきりで、手足は動かせず、話すこともできない。なぜ、なぜ、選りによってこんな時に。幸福の女神が微笑んだ時、私はただ呆然と見送るしかないのか。何たる運命の悪戯か。私の生涯をかけた夢はここに敗れ去ったのか。その夜、私は声を殺して泣いた。
8月はこうして終った。
10.人工呼吸器外れる
9月に入り、予定どおりであれば、看護師が交替する筈であった。私のいる「重病人室」の担当グループが個室の担当に移り、一般病室のグループが「重病人室」の担当となる予定だった。ところが、看護師の交替は1ヵ月間延期された。妻は、H看護師長が私の様態を心配し、慣れた看護師をもうしばらくつけたのではないかと言うが、一人の患者のためにそんなことがされる筈もないだろう。ただ、私にとっては、慣れた看護師にそのまま看てもらえてありがたかった。
引き続き、妻は毎日午後見舞いに来て、ニュースを伝え、新聞のコラムを読み上げてくれた。兄夫妻は毎週土曜日に、義姉A子さんは日曜日に見舞いに来て激励してくれた。長男T彦は月曜日か木曜日に妻と一緒に来ることが多かったが、次男M彦は私が回復して以来、10月に2回ほど来ただけだった。横浜で研修医として忙しいのだろう。
読み上げた新聞に、今までほとんど気にとめなかった健康、医療、福祉、ボランティアなどの記事が多く扱われているのには驚いた。自分がこういう立場になったからであろうか。
『地球がもし100人の村だったら』(マガジンハウス)という本が評判であったので、入手し読んでもらった。本来は、地球環境を大切にし、人種、国家の枠を超え、人々は仲よく暮らそうという内容であったが、いろいろと考えさせられることがあった。現在の日本は、戦争も徴兵制度もなく、地雷もなく、食料の心配もない、世界でもっとも平和で豊かな国だ。世界中では、今でも四分の一の人々が明日の食料にも、住む家にも困っている。文明の歴史の恩恵にあずかっている人々は、世界的な規模で見れば、わずかに過ぎないという。今の自分は本当に恵まれた立場にあると、つくづくと感じた。
9月7日、妻が持ってきた手紙の中に嬉しい案内が入っていた。神戸にいる長濱さんからの米国夏期ビジネス講座同窓会の開催通知である。
1975年(昭和50年)夏に州立ワシントン大学に学んだメンバーは、このところ毎年各地で同窓会を開催してきたが、2004年(平成16年)7月は夏期講座に参加して30年となるので、シアトルにある同大学キャンパスに夫婦同伴で直接集合しようとする壮大な計画である。今回はその準備期間を考えて、約3年前の予告通知である。10~15組くらいは参加するだろうか。
是非ともあの大学であの時一緒に勉強した仲間と再会したい。妻と長男T彦と一緒に行き、その後、当時休日に仲間と行ったカナダのバンフ国立公園を旅行したいと思った。その時までには、この病気を何とか克服し、体が自由に動かせるようになりたいものだが………。
9月4日、O先生がレントゲン写真を見せて、「肺炎の方は大分よくなったが、肺の下に水が溜まっている」と言った。
しかし、肺炎も治まり体力も回復してきたことから血漿交換が再開された。9月6日、7日、10日、11日、13日、14日の6日間にわり、ICU(集中治療室)にベッドごと運ばれ、毎回約3時間血漿交換が行われた。血漿交換は、7月から合計すると13回行われたわけで、これほど多く行われることは極めて稀のようだ。
後にインターネットに掲載されているギラン・バレー症候群にかかった人の闘病記を読んでみると、症状が重い場合でもせいぜい4回までであった。O先生が、私をそれだけ重症だと診断して、十分な処置をしてくださったのだと思う。
今回の血漿交換でも、やはり血圧が大きく変動し、苦しく疲れた。血漿交換のあった夜は体が興奮してほとんど眠れなかった。しかし、今回は「最新の優れた治療を受けているのだ。頑張って絶対よくなる」と繰り返し唱え、毎日回復していく様を強くイメージした。
それにもまして、2回目の危機を助けてくれた「見えざる大きな力」を信じた。今回も救ってくださると。これらが幸いしたためか、今回は血漿交換によってダウンすることはなかった。
「見えざる大きな力」についてはゆっくり考えよう。敬虔なクリスチャンでも熱心な仏教徒でもないが、時間は十分ある。生かされているというこの喜びと感謝の気持ちの奥にあるものは、何なのかを追究していこう。
この頃、私が看護師に何度もお願いしたのは、「さんそ」(苦しいので、酸素の割合を上げてください)から「たん」(痰をとってください)と「むき」(体の向きを替えてください)であった。
医師の思惑どおり看護師が酸素の割合を増やさなかったのは、正解だった。その後酸素の割合は、レベル12から10、8、6、4と、次第に減らすことができた。それとともに、人工呼吸器を外す準備が進められた。自力で呼吸ができるようになったためである。それまでは、呼吸器官の神経も麻痺していたようだ。
9月18日から昼間は人工呼吸器を外し、27日から夜間も外した。夜間外すにあたって、私はかなり神経質になっていた。N先生から、私が時々無呼吸になると聞かされていたからである。看護師を通しアカサタナ方式で先生に聞いたところ、「人によっては時々無呼吸になる人がいるが、心配はない」と言われた。この言葉で外す決心がついた。
人工呼吸器を外しても、酸素が「吹き流し」状態で供給されていたので、チューブは依然喉につながっていた。
「痰をとって」と看護師に頻繁にお願いしたのは、いくら痰をとってもらっても、喉に痰が絡んでいるように感じたからである。肺から気管支、気道を伝わって上がってくる痰を、喉にはめているカニューレの栓を開け、そこに吸引機の先を差し込み吸引してもらった。多い時は30分ごとに、それも喉の他に口、鼻と。喉は必ず3回続けて。
看護師は吸引するごとに新しい手袋と吸引機の先(管)を使い、その都度捨てた。看護師は私が神経質すぎる、喉の吸引を続けると気道を傷つけると、注意してくれた。
車椅子の方は、4人がかりで乗り降りさせてもらったが、乗っている時間を30分、40分と増やしていき、1時間30分以上座れるようになったので、9月26日に移動できる普通の車椅子に乗せてもらった。
この車椅子には看護師一人でも移すことができた。ベッドで私を半身起こしてからベッドの脇に立たせた。もちろん、私の体は全然力が入らなく、崩れてしまうため、看護師に向き合った体勢で、両脇を支えてもらった。次に、私の膝と看護師の膝を合わせ、私の体重を看護師に移した状態で、私を車椅子の方向にくるりと向きを変えて座らせた。私がいくら痩せたとはいえ、うまく移せるものだと感心した。妻は、力づくで私を抱えあげ車椅子に移そうとしたので、大変であった。
車椅子に移った後、ズレ落ちないように私の体はオンブ紐のようなもので車椅子に固定された。一度、その紐が緩く、車椅子を押してもらっている最中に体がズレ落ちて、足先が地に着き折れ曲がりそうになったことがあった。私は言葉を発することができなかったので、必死になって首を左右に振った。気づいてくれたから助かったが、怖い思いをした。
酸素は、壁にある酸素供給口につながるチューブから喉に、吹流し状態で供給されていた。このため、車椅子に移る時は、このチューブから移動用酸素ボンベに切り替える必用があった。切り替えてから、酸素ボンベを車椅子にとり付けた。
初めは車椅子で部屋から廊下に出て医療センター内を回ったが、妻が車椅子を押す場合でも、必ず看護師が付き添ってくれた。
私のベッドは窓側で、寝た姿勢では大きなガラス越しに空が望める。雲が悠揚と流れていく。見ていると、雲は意外に早く姿を変えていく。同じ曇った日にも、厚く垂れ込めた雲と明るく流れていく雲がある。夏には夏の雲が、秋には秋の雲がある。のどかな眺めである。雲をじっと見ていると、蕪村の句が思い出される。
春の海 ひねもすのたり のたりかな
季節も場面も違うが、なぜか心境が不思議に一致する。句では「のたり のたり」と一日中繰り返しているのは、海の波であるが、私は一日中のどかに流れていく雲を見ている。
20年も前になるが、銀行の視察団の随行でヨーロッパに行ったことがある。その時アムステルダム国立美術館で何枚もの風景画に見入った。レンブラントの「夜警」など多くの名画もあったが、心が惹かれたのはロイスダールなどの風景画であった。オランダには山がない。オランダの風景画は、その構図の三分の二は雲と光が描かれているという。北海から吹きつける風は厳しく、刻々と彫刻のような雲が表情を変えていく。荒々しい雲それ自体が広大な風景画であった。
それらに比べると、ここはまったく違った、のどかな雲が流れていく。時間もゆったりと過ぎてゆく。こんな贅沢な時間があっていいのだろうか。
しかし、心には揺れるものがあった。
目が見えるようになってからテレビを見るようになった。ベッドごとに小型テレビが置かれており、カードを入れて見る仕組みとなっていた。
テレビを見るようになって初めに飛び込んできたのが、あの9月11日のニューヨークの世界貿易センタービル爆破事件、いわゆる世界同時多発テロである。看護師のNさんが「大変な事が起こった」と、テレビをつけ見せてくれた。私は映画の一場面でも見せられているようで、しばらくの間呆然と眺めていた。すぐには事態が飲み込めなかった。
それからニュースを追い続けた。世界同時多発テロに対するブッシュ大統領の戦略は際立っていた。これを「国際テロ」とし、アフガニスタンのアルカイダをイスラム教、マイノリティーと分断孤立させ、国内、国際世論を味方につけて多数の同盟国と徹底的な報復攻撃に出た。
この時は米国の政府首脳の息も合っていた。よほどライス補佐官の練ったシナリオが優れたものであったのだろう。ただ、アルカイダなど国際「テロ組織に対する戦い」が、その後対イラク「戦争」に発展していくとは、この時は思ってもいなかった。
それはともかく、日本も国際テロとの戦いの後方支援をすることとなった。圧倒的支持に支えられ誕生した小泉政権が、これまでの旧態然とした政治体制を果たして大きく転換させ、閉塞感を打破してくれるだろうか、聖域なき構造改革を実現してくれるだろうかと期待して見ていた矢先、激動する国際政治の荒波に翻弄されていく。
世の中がガラガラと音を立てて変わっていく。
国際的不安から株安が進み、日経平均株価が1万円を切ろうとしている。株安をはじめとする資産デフレが進行する限り、金融機関の不良債権は増大し銀行経営は悪化していく。また一方、不良債権問題が解決しない限り、この長期デフレ、不況から脱却できない。
このジレンマをどう解決すればいいか。あぁー、どうなるのだろう。情報をかき集め、徹底的に調べてみたい。
自分の置かれている状況も掴め余裕が出てくるとともに、激しい焦燥感に駆られた。自分だけが職場からも社会からも一人とり残されているのでないかと。少なくともこの3ヵ月余り、情報から隔離され、本や雑誌も読んでいないし、1つの事柄に真剣に対峙し、頭を振り絞って考えたこともない。
妻は、入院した当初から「これは神様が与えてくれた休養だと思い、ゆっくり休みなさい」と言った。今までこの言葉に救われ、じっと時を過ごしてきたが、余裕ができ、社会の動きが見られるようになってから、私の心は大きく揺れた。
延びのびになっていた理髪を9月23日の夕方にしてもらった。理髪師が出張して、ベッドに寝ているまま、新聞紙を頭の下に敷き、向きを左右に替え刈った。前に刈ってから3ヵ月以上経っているので、思い切って短く刈り込んでもらい、サッパリした。短く刈り込むのに不満はあった。
しかし、この際、ヘアースタイルを云々している場合ではなかった。
11.職場から見舞いに来る
10月3日、職場から見舞いに来た。
私が倒れた直後から職場は見舞いに来たいと強く希望していた。とくに総務部長のKさんは30年来の友人で、倒れる前日の昼休みに一緒にコーヒーを飲んだ仲であるため、一番心配し激励の手紙を何通も送って寄こした。しかし、そんな個人的な立場ではなく、人事担当部長としては、休暇届けと診断書を受け取るだけでなく、職場を代表して見舞い、自分の目で私の容態を確かめ、役員に報告する必要があったと思う。
私のいる部屋は「重病人室」で身内しか入室を認められなく、また、これまで到底見舞いを受けられる状況になかったことから、丁重にお断りしてきた。しかし、人工呼吸器も外れたのでO先生に相談したところ、少人数で治療に差し障りのない範囲という条件で許可をいただいた。
妻がK部長に電話で人工呼吸器が外れたと伝えると、すぐに日程を調整して見舞いに来るとの返事があった。妻によれば、こちらから見舞い云々を言い出そうとする前に言われたとのことで、K部長にしてみれば見舞いの受け入れが遅いとの感が強かったのだろう。
これまでにもK部長は、人事関係の窓口として私の処遇について親切に相談に乗り対応してくれた。
私が倒れたため9月に臨時の人事異動が行われ、私は総務部参事となり、私の異動に伴い4名の人が替わった。考えれば考えるほど、職場には迷惑をかけたと思う。
10月3日午後1時にN事務局長とK総務部長が公用車で来られた。妻は病院の入口で出迎え病室に案内した。緊張した対面となった。
局長も総務部長もしばらくは言葉を失ったようだった。入院して3ヵ月半が過ぎ、人工呼吸器も外れたと聞いていたので、そろそろ退院かと期待していたかも知れない。それが、人工呼吸器は外れたとはいえ、酸素吸入のため喉にはチューブが通っており、また、経管栄養のため鼻から胃にもチューブが通っている。その他、点滴のチューブや、心電図や血中の酸素濃度を調べるため機器などがとりつけられている。一言も発することができない。手や足も麻痺しほとんど動かせない。
入院前76キロあった体重が40キロ近くに落ち、骨と皮ばかりになり、アバラ骨は病院着の中にあったが、外から見える腕は皮が弛んでまるで干し大根のようにしなぶれている。顔も痩せ衰えて蒼白だった。ベッドで寝たままわずか15分程度の対面も、つらそうに見えたようだ。
私は病でやつれた姿を晒したくない気持ちもあったが、休暇と欠勤扱いを認めてくれた職場に対して、あるがままの自分を見てもらわなければならないとの思いもあった。
私はアカサタナ方式で妻に訳してもらい、「今日はお忙しいところ遠路をお越しいただきありがとうございます。私が倒れ仕事で大変迷惑をおかけしました。それにもかかわらず、処遇について格別の配慮をしていただき、本当にありがとうございます」と述べたかった。
しかし、実際にアカサタナ方式で、カ行第二段の「き」、ヤ行第五段の「よ」と、最初の一文字、二文字を伝え始めたところ、局長も総務部長もこれは大変な手間と時間がかかると思ったのであろう。アカサタナ方式の意思表示を止め、私の言わんとすることを酌んでてくれた。
局長からは「仕事の方は心配しなくてもよい。しっかり療養して元気になってほしい。職場に復帰した場合のポストは用意しておく」旨の言葉をいただいた。局長の差し伸べた握手に、私の手は微かに応えただけで、手を放した瞬間、私の腕は棒切れのように静かにズレ落ちた。その時の局長は驚きの表情を隠さなかったと、後で妻は言った。
総務部長も激励してくれた。私は目で感謝の気持ちを伝えたかった。
10月23日に研修所からH所長、S参事、Sさんが来られた。また、27日、土曜日にはK部長と私の後任のT君が来てくれた。激励の寄せ書きや、壁一杯の激励の言葉を背景に部全員が写っている写真などをもってきた。
T君の話では、通常業務も、心配していた特命の課題も順調に運び、年度決算でかなりの黒字が見込まれるとのことであった。これも、私がレールをしっかり敷いてくれたためとも言ってくれた。たとえお世辞でも、涙が出るほど嬉しかった。
私が倒れ、仕事はどうなったかと心配でいたたまれなかったが、本当によかったとほっとした。職場は私がいなくなり困っていることもあっただろうが、自分で思うほど「自分でなければ」動かない世界ではない。いなければいないなりに動く。それが組織というものであろうか。
安心もしたが、言いようのない寂しさに襲われた。
話は少し戻るが、10月になり看護師が交替した。今回のチームも、前のチーム同様、明るく優しくしかも美人揃いであった。看護師は、医療看護の他、患者や老人の世話も多く、さらに夜勤や準夜勤もあるため、勤務は厳しく大変な仕事だと思うが、いつも笑顔を絶やさず献身的に対応してくれる。私は四肢が麻痺し話せないので、すべてにわたっての介護とアカサタナ方式の対話が必要である。交替した看護師も介護を優しくし、アカサタナ方式の対話を辛抱強くしてくれた。
あえて言えば、今回のチームの方が厳しかった。以前は生死をさ迷っていた時が長かったため、ついつい優しくなり、甘やかすことになったのだろう。その反省が申し送りされているのか、車椅子に乗った時など、早くベッドに戻りたくても、毎回乗っている時間を延長してゆき、戻してくれなかった。また、ベッドでは上向きの方が楽なので、つい上向きをお願いしたが、褥瘡(=床擦れ)を治すため、左向きか右向きに寝かされた。それから、看護師を呼ぶのに動く右足でナースコールを押していたが、微かに動く左手薬指で押すように有無を言わさず変えさせられた。辛かったが、車椅子に長く乗れるようになったし、褥瘡も治ったし、その後左手の薬指だけでパソコンを操作できるようになったので、今では看護師の厳しさに感謝している。
看護師が交替したといっても、同じ病棟にいて忙しい時には助け合って行き来していたので、今回のチームの顔は知っていたし、前のチームの人も時々来て、声をかけてくれた。
しかし、困った事態が生じた。私の女性オンチが始まったのだ。今回のチームのIさんとNさんが非常に似ていて――他の人にはそうでもないらしいが――どうしても見分けがつかなかった。ともに若くて美しく、同じ白衣を着ている。最初はヘアースタイルが少し違っているので、横を向いた時見分けたが、ある時から同じヘアースタイルになり、どちらかが来て「さあ、どっちだ」と聞かれた時には参った。
確率からすれば二分の一は当たる筈であるが、勘で答えると違うことが多かった。確率論はここでは成立しなかった。相当経ってから、空いている時間にリハビリのため水彩画の道具を用意してくれ、絵を書いた。手が不自由なため、絵筆は口に咥えて描いた。その時、IさんとNさんが一人ずつモデルになってくれた。描いてから二人の見分けがやっとつくようになった。
Iさんは、私の担当であり、私が転院する前、結婚のため退職し前橋に移った。幸福な家庭を築かれたことと思う。Nさんはその後私の担当となった。
血漿交換がすべて行われた後、ガンマ・グロブリンの点滴が、8月に続き3クール目として10月15日から19日の5日間連続して実施された。
O先生が「今度はウルトラCの治療をやろう」と言った。「じわじわと効いてきますよ」とも言った。この薬はかなり高価で、O先生の話によれば、健康保険で3クール(1クールは5日間)の治療ができるか分からないとのことであったが、妻は自費になっても構わないからと、先生にお願いした。
また、この薬は世界同時多発テロ事件の発生以来入手困難とも告げられていた。幸い、ここの八王子医療センターには確保されており、健康保険の対象となった。前回の2クール目と同様、毎日20本近くのビンをつなぎ合わせた点滴が、5日間連続して行われた。
ガンマ・グロブリンの点滴は、血漿交換と違い、苦しくなることも夜眠れなくなることもなかった。私はO先生の言葉を信じ、この治療薬で必ず健康を回復し、手足が動かせるようになると思い、健康を回復する様を念じ、自由に手足を動かしている夢を何度も見た。
なお、ガンマ・グロブリンは、免疫を強める効果があるが、血漿交換と同様、末梢神経の破壊を止めるもので、破壊された末梢神経を再生させるものではない。抹消神経の再生、手足の機能回復は、自然治癒(自己回復力)とリハビリを待つしかない。このため、ギラン・バレー症候群が治るには3年以上もかかる場合もある。
もっとも、これはその後知ったことで、この時はただギラン・バレー症候群に効く、高価で優れた治療を受けており、手足の麻痺の回復にも効果があると信じていた。
ガンマ・グロブリンの点滴を3クール(1クールは5日間)受けるのも稀だが、血漿交換を13回も受けたのも極めて珍しいようだ。一般の場合、いずれかの治療で、回数もはるかに少ないようだ。
私の治療費は高額に達していた。自費部分の負担も大変であったが、健康保険組合の負担額も膨大となった。全国の高額医療を受けている最上位者については、厚生労働大臣に報告され発表されるが、8月分のそのリストに私のケースが掲載されていたという。8月は、ICU(集中治療室)で何日にもわたり大掛かりな救命処置を受けたり、2回目のガンマ・グロブリンの点滴を受けたりした時期にあたったため、とくに治療費が嵩んだ。また、その後聞いた話では、平成13年度の単独の病気での高額医療費のリストのトップの方に私のケースが出ていたという。「単独の病気での」というのは、いくつかの病気を併発し治療を受けている場合は、私より上の患者がいたらしい。
高価な治療費を「自費でも」とお願いした妻に感謝している。また、職場の健康保険組合にも感謝している。
O先生は妻に言った。「これだけの医療処置を施したのだから、生きてもらわなければ困る」と。
12.遊歩道の散歩
10月に入って、車椅子に乗せて押してもらい散歩することが、毎日午後の日課となった。初めは酸素ボンベを付けていたため、看護師が付き添ってくれたが、妻だけで大丈夫なのを確認してからは看護師は付き添わなくなった。
また、毎日夕方リハビリのためT先生がベッドに来てくれたが、車椅子で地階の理学療法室に行けるようになってからは、こちらからリハビリに出向くようにした。
手足のストレッチ運動から直立台に立つこともするようになった。手足のストレッチ運動は他動で曲げ伸ばしをしてもらうのが主であったが、テーブルの上で両手でタオルを左右に広げたり中央に戻したりもした。しかし、腕や手が脱力しているため、なかなかできなかった。直立台には、寝た姿勢から台ごと立たせてもらったが、初めは体が慣れないため苦しく、車椅子に座っている時とは目の高さが違ったため怖かった。
地階に行く途中、それまで聞いていた売店や花屋のスタンドをその時初めて見ることができた。その他、各階の病棟やロビー、レストランなど病院内のいたる所に車椅子で連れて行ってもらった。
それから、ついに病棟の外へ出た。8月終り頃に花火大会の前にベッドごと行った遊歩道の入口に行ってみた。意外に近かった。
遊歩道は、武蔵野の面影を残す雑木林を散策できるように舗装整備された小道で、脇には雑木林を壊さないように控えめに木や花が植えられ、ベンチも置かれていた。
花火大会前にベッドごと散歩に連れて行ってもらった時は夏で、草木は茂り緑に輝いていたが、もう晩秋にかかり、紅葉の季節となっていた。モミジは真っ赤に染まり、ウルシやヤマイモの蔓も黄色くなっていたが、ナラ、クヌギ、ブナ、ケヤキなどの落葉樹は葉が枯葉となって次第に散っていった。
天気がよければ、毎日妻に車椅子を押してもらい遊歩道を散歩した。時には、見舞いに来た兄夫妻や義姉や長男に車椅子を押してもらった。毎日遊歩道を散歩しても、飽きなかった。
ある時、遊歩道にイノシシの親子が出たので注意するようにとの連絡が、口コミで病棟全体に伝わった。私は面白いからとせがんで遊歩道に連れて行ってもらったが、その時は肥った黒猫一匹を見ただけだった。
雨の日は、病院内を散歩し、廊下の外れにあるガラス窓に車椅子を止め、外を眺め、雨の風情を楽しんだ。
遊歩道を散歩している時、妻は思い悩んでいるようだった。O先生から退院か転院かの話が持ち出されたからである。
10月20日は入院して4ヵ月目になる。聞くところによると、同一患者の診療報酬は3ヵ月を過ぎると減り、さらに6ヵ月を過ぎると大幅に減る。したがって、病院経営上入院患者を3ヵ月以上、さらには6ヵ月以上置きたくないという。しかし、私としては、入院が長くなるから退院か転院してくれというのでは納得がいかない。
私が退院して自宅に帰ることになったら、私は手足がまったく動かないため、妻だけでは看病しきれない。食事、下の世話、着せ替え、風呂あるいはシャワー、車椅子への乗り降り、さらには痰の吸引………など、しなければならない看護と介助を数え上げたら切りがない。一日ももたずに家庭が崩壊するのが目に見える。
いくらヘルパーやボランティアを頼もうが無理である。妻は、また、ギラン・バレー症候群は、筋ジストロフィーのような公的負担のある難病でもなく、脳梗塞のような老人病にも指定されていないので、介護保険の対象とはならない、すべて自費でまかなわなければならないとも言った。
難病は医療費の公的負担があるものと、ないものがあるが、ギラン・バレー症候群は「ない」方である。つまり、ギラン・バレー症候群は難病に指定されているが、医療費はタダにはならない。
妻は何度も「家に帰りたくないの」と聞いた。私は「帰りたいに決まっている。しかし、今のままでは帰れない」と答えた。
そこで、退院か転院と聞かれれば、転院と答えざるをえない。転院しなければならないとしたら、この医療センターのように自宅から近いこと、高度の医療設備が整っていること、優れた医師がいて行き届いた看護がなされることが条件だと思った。
私は、その時はまだ治療の途中段階にあると思っていた。肺や喉はもうしばらく治療すれば治るだろう。しかし、手や足をはじめ全身はほとんど麻痺し、動かせない、麻痺が回復するまで血漿交換やガンマ・グロブリンのような治療が続けられるものと思っていた。
そこで、O先生に妻を通して「なぜ自分が転院しなければならないのか分からない」と言った。これに対し先生は「ここは救命病院で、大きな手術を必要とする患者が何ヵ月も待っている」と答えた。
その後いろいろのことを知り、O先生の言わんとしたことが段々と分かってきた。おそらく、O先生は「あなたには救命処置を施し、重度のギラン・バレー症候群の治療も最新の医療技術で、しかも十分すぎるほど尽くし、治療段階はもう終わった。あとは転院か退院し、自然治癒とリハビリにより麻痺した四肢を回復させるしかない。この病院はリハビリ設備が十分に備わっていない」ということであったのだろう。
O先生は、この医療センターに所属する医療相談室のケースワーカー、Oさんを紹介してくれ、10月30日会うことができた。彼女は、他の病院について詳しい情報をもっており、O先生の意向を汲んで、親切で熱心な相談相手になってくれた。
その時はまだ私の喉に酸素吸入のチューブが接続されていることから、転院先の病院は限られていた。その中から優れた医療設備が整っていること、リハビリができること、さらにはギラン・バレー症候群の患者を扱い、そのノウハウをもっていることから、埼玉県の所沢市にある国立身体障害者リハビリテーションセンター病院に決めた。
他にも候補があったが、いわゆる老人病院(=療養型病床群)で寝かせっきりになる惧れがあったり、妻が自動車で看病に往復するには地形的に不便な所にあったりして、転院先としては相応しくなかった。また、国立リハビリ病院に決めるにあたって、妻は近くに実家があることから妻の母、姉、長男T彦と一緒に行って自分の目で確かめ、その後改めて行って病院関係者とよく話し合ってきたので、私としてはまったく異存はなかった。
この時の予定では、転院は国立リハビリ病院のベッドの空く2月とし、転院の2~3週間前に連絡がくることとなった。
もう一つ、妻との間に大きな問題があった。それは、花粉症の薬の扱いであった。私の花粉症は酷く、季節には薬を飲まなければ鼻水とクシャミが2、3分おきに出て目が真っ赤になり、とても他のことなどできる状態でなく、夜も寝られなかった。何軒かの医者にかかり薬をもらったが、近所のO医院の薬が、自分の体には一番効いた。
職場近くの医院でもらった薬は、けだるくなるだけで、花粉症の症状は治まらなかった。また、市販の薬は、眠いだけで全然効かないものが多かった。そこで花粉症になって約20年、季節になるとO医院の花粉症の薬を服用していた。しかし、O医院の薬はステロイド系のセレスタミンの錠剤であるため、妻は私に服用を控えるようにいつも強く訴えていた。私は花粉症の季節になると、やむをえず抑えて服用していた。
今回、ギラン・バレー症候群で倒れた原因ははっきりしないが、原因の一つとして服用した薬、ステロイド剤が蓄積したことが考えられる。
妻は、「今度こそセレスタミンを止めるべきである、これまでの医療センターの治療はこの薬を止めさせるためのものなので、だいたい医師が認める筈がない」と言った。
妻の言うことは痛いほどよく分かるが、私は前述のように薬なしではとても生活できそうにもなかった。
そこで、O医院の薬の残りと、2年半前当医療センターに通った時その薬を説明した資料を持って来てもらい、看護師を通してN先生に相談することとした。
N先生は、意外にもあっさりと「服用してもいいですよ。セレスタミンはステロイド系の薬かも知れないが、弱いので問題はない」と言われた。「服用する時に言ってくれれば、当医療センターで薬を出します」とも言った。
この間の妻とのやりとりは、私は話せなく、アカサタナ方式で行ったので、大変であった。
13.話せる、食べられる
―11月~12月(その1)―
11月になって転院に向けての準備が着々と進められた。
11月10日に尿の管が外れ、13日に酸素の供給が外され、16日に食事の訓練が始まり、17日に肺から水を抜く手術が行われ、20日に話すことができるようになった。
まず、11月10日に尿の管が外された。入院以来、膀胱に管が通され、尿はベッドの横に備えられた袋に溜まるようになっており、車椅子の時もその袋を付けていたが、それがとり外された。代わりに尿取りパッドを紙オムツの内側に付けた。尿意を催した時は尿瓶(しびん)を持ってきてもらうが、間に合わない時は尿取りパッドにしてそれを交換することとした。
尿管を外した当初は、尿意を催すのが早く、看護師の手を煩わせた。しかし、本来の姿に戻ったわけで、早く慣れなければと思った。
次に11月13日に酸素の供給が外された。人工呼吸器が外された後も酸素が普通の空気より多い濃度で吹流し状態で供給されていたが、レベル2まで下がった時、リハビリのT先生から「普通の空気とほぼ同じ酸素濃度だ。もう外してみたら」と言われた。そして13日に外すこととなった。しかし、外すことに対して私はかなり神経質となっていた。
血中の酸素濃度を測定するサチュレーション・モニターの数値をしきりに知りたがった。100が最高値で、95以上は正常で、94~92は要注意で、91以下は危険だと聞いていた。私は30分ごとに聞いて看護師を困らせた。しばしば94以下、時には91以下に下がったためである。
94以下に下がった場合、看護師に酸素の供給量を多くしてくれとお願いした。そんな時、看護師は決まって「ゆっくりと、大きく深呼吸してください」と言い、酸素の供給量は変えなかった。「田丸さんは寝ている時はいつも98以上なので、意識しない方がサチュレーション・モニターの数値が高い」とも言った。
事実、意識して深呼吸を続けても数値が上がらなかった。深呼吸を続けると過呼吸を防止するため、体が自動的に酸素の摂取量をコントロールするのかとも思った。また、寝ている時は酸素の消費量が少ないため、酸素濃度が高いのかとも思った。酸素の三分の一は脳で消費されるという。私には意識して深呼吸するのがいいのか、それとも意識しないで普通に呼吸するのがいいのか、分からなくなった。
本来、サチュレーション・モニターは医者と看護師が視るもので、患者が視るものではないが、ある日、看護師にお願いしモニターの画面を私の方に向けてもらい、いろいろの呼吸方法を行い、数値を確かめた。
まずゆっくりと深呼吸を続けた。次に寝ているつもりで意識しないで普通に呼吸してみた。それから、浅くならない程度に早く呼吸してみた。その他にもいろいろと呼吸の仕方を変えてみた。
一つの呼吸方法を続け5分後の数値を測定すればよいと思い、時計とモニターを睨みながら実施した。その結果、数値は常に動いているものの、呼吸方法とはあまり関係がないことが分かった。
看護師のNさんが「そんなにモニターの値を気にするなら、モニターを病室から引き揚げ、ナースステーションで監視します。モニターの数値は患者の容態を総合的にみる一つに過ぎません。酸素の供給量を多くする必要があるかどうかは、田丸さんが考えなくとも結構です」と言った。
しかし、私には体内の酸素濃度が気になって仕方がなかった。
酸素濃度を高めるためには、喉の痰をとる必要があると考え、盛んに「側臥位(そくがい)」を行った。これは、30~40分間体を真横より少しうつ伏せの姿勢でじっとしてから痰を吸引してもらうもので、その姿勢でいると上にしている肺から痰が気道に下り、さらに気道を伝わって喉に集まる仕組みである。
側臥位の終り10分間は、ネブライザーを吸引し、痰の切れをよくしてもらい、また、背中にバイブレーターを当てて痰を肺から気道に下りやすくしてもらった。
しばらく休んでから反対の向きになって側臥位を行った。多い時には一日3~4回実施した。「腹臥位(ふくがい)」といって、まったくうつ伏せの姿勢になることもした。そんな時決まって私から時間を指定し、看護師が側臥位や腹臥位を終らせ体勢を直しに来るのが、指定した時間より少しでも遅くなれば大騒ぎをした。自分では体の向きひとつ換えることができなかった。今思うと、看護師に対して本当に自分勝手で迷惑をかけたと思っている。
酸素の供給が外されることとなったため、ベッド脇から喉へつながっているチューブもなくなり、外に出る時車椅子に取り付けた酸素ボンベも必要なくなった。
11月20日に5ヵ月振りに話せるようになった。喉からチューブが外れたが、喉にはそのチューブを受け入れるカニューレが残っていた。カニューレを残したのは、酸素を供給していた時と同様、その蓋を外し、吸引機を差し込み痰を吸引するためである。そのカニューレがチューブから外れたことから、そこに一種の弁を付けた。これを「スピーチカニューレ」と呼んでいたが、息を出すと声になった。自然の声ではなく、機械による合成音のような声だったので、私は「怪獣の声」と言った。長男T彦は私のことを「ワニ」と言った。じっとして動かないが、時々咥えつくからだと言う。
4ヵ月間イエス・ノーかアカサタナ方式でしか意思を伝達できない生活を強いられた後だと、話せることは何とありがたいことかと、実体験として心底感じた。普通の人にとって何でもない、当り前のことが何とありがたいことか。人間は他の動物と違ったのは、火と道具を使ったこと、話せたこと、直立し歩けたことと言われるが、話せることは本当にありがたいことだ。私は、何か数十万年の人類の歴史を辿る模擬体験しているような気になった。貴重な体験だ。
最初に妻に話した言葉は「あなた、ありがとう」であった。医者にも看護師にも見舞い客にも、自分の言葉でお礼を言った。
話すにあたっては、11月以前から女性の言語療法士のS先生から週2、3度指導を受けた。情けないことに、4ヵ月も話していないと、話すのにとまどった。単語、文章の読み上げなどを練習した。ラ行の発音がとくに難しかった。咳払いの仕方も教えてもらった。
S先生は面白い方で、話し方の訓練の他、音楽談義をしたり、週刊誌『アエラ』を貸してくれたり、パソコンの操作も教えてくれた。パソコンは、障害者用に片手でマウスを操作しワードを打てるプログラム、「ソフト・キーボード」をあらかじめ呼び出してあり、それを使い練習した。
11月17日に肺から水を抜く手術を受けた。9月初めO先生がレントゲン写真を見せて「肺炎の方はよくなったが、肺の下に水が溜まっている」と言ったが、その後もレントゲン写真に水が写っていた。O先生は呼吸器系統の医師に相談していたようだったが、結局自分で手術を行った。
右肺の横に麻酔を打ち、長い太い針を2ヵ所刺して水を抜いた。先生は「水はあまり採れなかった」と言ったが、トレイには血を水で薄めたような液体があった。痛く苦しい手術だった。
話は少し戻るが、11月15日より食事の訓練が始まった。それまでは、喉の神経が麻痺していたため、呼吸と食べ物の飲み込みのとの切替えがうまくいかず、誤嚥(=食べ物を誤って気管支に飲み込むこと)しかねなかったためである。最初はプリンかゼリーか茶碗蒸しかを選んで、スプーンで一匙ずつ慎重に口に入れてもらい飲み込む練習をした。
O先生は「ゆっくりゆっくり飲み込めば大丈夫だ」と言った。私は、誤嚥しないように、恐るおそる飲み込んだ。飲み込む時、食道は気道の奥にあると思い、意識して奥に飲み込むようにした。
プリンもゼリーも久しぶりに口にすると、味が濃く、咽そうになった。茶碗蒸しは、もちろん海老や椎茸や銀杏は入ってなく、うどんの汁を固めたようで不味かった。体が食べ物を受け付けなくなっていたのかも知れない。
2、3回訓練してから、ペースト状から刻み食の一皿か二皿かを、看護師にスプーンで口に入れてもらい食べた。しかし、その刻み食の不味かったこと。野菜などを細かく刻んでグツグツ煮てしまうと、新鮮な味も香りも歯応えもない。咽ないように、お茶や味噌汁には「とろみ」という粉末を入れ少し固めてからストローで飲んだが、それも不味かった。
ご飯はお粥であったが、日によって水っぽいものから普通のご飯に近いものもあり、時には糊のように煮つめたものも出た。
食べられるようになってから2~3週間して刻み食から普通食になった。それでも、病院食は塩分が少ないことと冷めていることから、美味しいとは言い難かった。約5ヵ月ぶりの食事、しかも介助して食べさせてもらっているのだから、もう少しありがたくいただかなければならないのだが………。
12月9日に一度誤って食べ物を気道に入れてしまい、大騒ぎをした。昼食時に介助してくれた看護師と話をしていて、つい話に夢中になり、迂闊にも飲み込むタイミングと返事をするタイミングをごっちゃにし、咽てしまった。何度も咽返り涙を流した。
N先生がすぐ駆けつけ、私の喉にあるカニューレを外し、気道に管を差入れ吸引してくれ事無きをえた。その後、私を寝かせてしばらく酸素吸入したが、その日の夕食はいつもどおりだった。
ベッドで寝ていると、無性に旅をしたくなり、代わりにテレビで旅番組を見た。そこには決まって絶景と温泉と海の幸があった。食べられるようになったら、大きなカニ、エビ、ウニ、トロなどを食べたいと思った。
何かで読んだが、商社などで中東に長く駐在していると、温かい白いご飯と味噌汁と海苔を食べたくなり、夢にまで見るというが、私もそれに似て美味しい寿司を心ゆくまで食べてみたいと思った。
それに10年以上も前になるが、ニューヨークの有名なレストランで食べたジューシィーなステーキ、まったく違うが味の濃い喜多方ラーメン、それにカラッと揚げたての天ぷらなども食べたいと思った。
そこで、本格的に食事ができるようになってから、食事の差入れとして寿司や天ぷらを持ってきてもらった。ステーキは、BSEが叫ばれている折から、妻は持ってこなかった。私もニューヨークの思い出の味を壊したくなかったので、差入れはあきらめた。その代わり、一階のレストランでラーメンを食べたさせてもらった。その時、脳外科の先生が隣の席に来たのは、オマケだった。
翌日回診の時、その先生と顔を合わせが、そこは「武士の情け」か、あるいは忙しくていちいち患者の私生活まで気にしていられないためか、何も言わなかった。
その他、肺によいということで、妻にリンゴを半個分ずつすってもらい、毎食スプーンで食べさせてもらった。
食事が本格的にできるようになってから、体に異変が生じた。その前の点滴と経管栄養だけの5ヵ月間を通して体重は減り続けていたが、本格的に食事を採るようになってから、体力が回復し始めたのだ。
あんなに気にしていた血中の酸素濃度が、ハンで押したように、正常値である97で固定して動かなくなった。また、いくら側臥位をしても痰が出なくなったので、側臥位はやめた。
また、食事ができるようになり血液が濃くなったためか、肺から水がすっかりなくなり、レントゲン写真から水が消え、白い影もすっかりなくなった。O先生はレントゲン写真を見せ「8月ICU(集中治療室)から帰ってきた時の写真と比べると、これが同じ人かと思うほどよくなった」と言った。
体力が戻り始め腰が少ししっかりしたためか、何時間も車椅子に座っていても大丈夫となり、ベッドで横向きにしても上向きにしてくれと自分から言わなくなった。40キロ近くなり骨と皮ばっかりだった体も、体重が戻り始め血色もよくなった。いつか円形脱毛症はなくなっていた。
次男M彦が10月見舞いに来た時、「早く酸素を外したら」と「経管栄養から普通食になったら、肺はいっぺんでよくなるんだがなぁー」と言ったことを思い出した。
義姉も盛んに「病気を治すには強い希望と食べ物と休養だ」と言って、盛んに差入れを持ってきてくれた。
しかし、病院食は相変わらず不味かった。(注)刺身や天ぷらは望むべくもなかったが、カボチャと豆腐が多いのには閉口した。暮れも押し迫った頃、一時帰宅する患者が多く、長持ちしない豆腐が残ったためか、一食に豆腐の味噌汁とタルタルソースをかけた豆腐など何皿もの豆腐料理が出たのには参った。わが家の家訓ではないが、これまで出されたものは感謝してすべて食べてきたが、この時だけは豆腐を残した。
妻に言わせれば、納豆など病気によっては出せないものがある中で、栄養のバランスを考え、よくこれだけ多くのメニューを出していると感心していたが………。
(注)病院の名誉のため一言追記させていただきたい。私は、10年後の2011(平成23)年
6月にこの病院の外科病棟に再び入院することになったが、その時に出された食事
は様変わりで、病院食としてはこれ以上望めないような美味しい食事であった。事前
にご飯、麺、パン類を選択でき、よい食材が使われ、塩分は少ないがダシがよく効い
て非常に美味しく、トレイもホットとコールドに分けられ、皿数も多かった。
14.クラシック音楽を聴く
―11月~12月(その2)―
11月になっても、車椅子で遊歩道の散歩に連れて行ってもらうことが楽しみで、雨さえ降っていなければ出かけた。寒くなったため、毛布や膝掛けをかけ、毛糸のマフラーや帽子を被り、完全武装して出かけた。遊歩道は、紅葉が深まり、次第に葉が散っていき、枯れ木の林に姿を変えていった。日の沈むのも早まった。ある時は日暮れ直前に散歩した。
しかし、12月10日頃に出かけた時、あまりにも寒く、悪寒が走り、これは風邪をひいたかと思った。幸い、風邪はひかなかったが、その時以来外出はとりやめた。代わって、医療センター内を車椅子で連れて行ってもらった。
12月になると、各病棟もナースステーションの前にクリスマスの飾り付けがされた。モミの木に光ファイバーのイルミネーションが刻々と色を変えていった。
病棟により飾り付けが違っていた。小児科は白いモミの木で、子供に喜ばれるものであった。病棟の医師、看護師、看護助手の心遣いが伝わってきた。聞くところによると、各病棟の看護師が医師からカンパを募り飾り付けしたものだという。
12月20日、職場から見舞客が来た。研修所のS参事、T君、N君である。忙しいところを本当によく来てくれたと、嬉しかった。10月下旬に来た時に比べ、私は体力もつき、車椅子に座り、話せるようになっていたので、皆は「元気になった」と言って喜んでくれた。私は、「仕事で忙しいでしょうが、家庭を大切に」と言った。私が皆に仕事の負担を与えておきながらもっともらしいことを言ってしまったと、後悔した。
12月24日、クリスマスイブの夜、各病室の照明を消し、サンタクロース、トナカイに仮装した医師、看護師がスポットライトを浴びて音楽とともに現われ、各患者に「メリークリスマス!」と唱和し、写真を一緒に写し、クリスマスカードを渡してくれた。暮れの楽しいひと時であった。
重病人室は気が滅入らないように、朝6時の起床時にブラインドを上げ、窓も少しの間開け外気を入れ、ラジオからDJなどを流す。日中は患者の家族も美空ひばりの歌などを流している。お互い棲み分けしいるようで、その時はDJの音は消されている。
ある時、看護師に聞いたところ「あんまり大きな音でなければ、どうぞ」ということであったので、CDラジカセを持ち込み、クラシック音楽を聴くことにした。
家からCDを何枚か持ってきてもらった。この際だから全部聴いてみたいとも思ったが、病院内であるし、CDラジカセをほとんど妻に操作してもらい、聴くのはわずかな時間のため、自ずと制約される。妻が、今の気持ちとしてはモーツァルトの「レクイエム」を聴きたいと言った。私も雰囲気的にピッタリするだろうと思ったが、病院で聴くのは不謹慎であろう。
結局、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスなどの交響曲や協奏曲を小さな音で、さわりの部分だけを少し聴くこととした。後は、一人になった時に聴いた曲を心の中で反芻し展開させた。
自宅の書斎で、本や資料を読みながら心ゆくまで音楽を聴いていたのが懐かしかった。音にはこだわり、スピーカーやアンプも選んだ。重厚な音であっても、柔らかく、透明で深みがなければならない。CDも、古い録音もあるが、演奏家にもこだわっていた。本当に好きな演奏家がつくりだす世界には、浸ることができ、陶酔できたからである。
兄夫妻も見舞いに来た時、愛蔵のCDやテープを持ってきて聴かせてくれた。兄と私とは若干好みに違いがあった。
いつも自宅で聴いていたブルックナーやマーラーなど後期ロマン派の長大な交響曲は、病院で聴くのには向かなかった。CDラジカセでは音が貧しいこともあるが、曲が長く、さらに身構えて聴かなければならず、療養生活には重いからである。
しかし、今回生死をさ迷ったことで、これまで聴いていた曲を改めて聴き直し、感動したものもあった。例えば、ブルックナーもマーラーも最後の交響曲として第9番があり、ともに死を予感しながら書いたものである。しかし、その描いている世界がまったく異なっていた。
ブルックナーの終楽章は死に対する恐怖ではなく、彼岸に到達しえた安らぎの境地、神聖なアダージョである。自然を愛し、朴訥で敬虔なカソリック信徒の心が最後に辿り着いた崇高な世界である。
一方、マーラーの第9番は、とにかく美しく、精神の高揚が壮絶に謳われているが、時折、死の深淵をかい間覗くような怖さと不気味さが鬼気として襲ってくる。ニーチェが言った「死の深淵を覗く怖さは、覗いている者を死の深淵が同じように見ているからだ」という言葉を思い出させる。まさに狂人か天才でなければ描けなかった世界である。
病院では、長大な交響曲ではなく、バロック音楽や小品を好んで聴いた。まさにこの日のために作ったようなテープを持っていた。
それは、数百枚のCDの中から好きな小品、あるいは好きな曲の部分を選りすぐって6本のテープに収めたもので、器楽とオーケストラ、明るい曲と落ち着いた曲、速い曲と緩やかな曲などバランスと順序を考えてCDからコピーしたテープである。各曲のインターバルの長さにもこだわった。短かすぎると前の曲の余韻が残ったまま次の曲が始まるし、長すぎると緊張が解け間延びする。
デジタルからあまり音質が劣化しないようにメタルテープとした。資金に余裕があればCD―ROM化したかったのだが、それは次の課題である。
その6本のテープは、入院前にBGMとして書斎でよく聴いていた。それは次のような曲である。
○ パッヘルベル作曲 「カノン」
○ ラフマノフ作曲 「パガニーニの主題による変奏曲」から第18変奏
○ レスピーギ作曲 「リュートのための古風な舞曲とアリア」第3組曲から「シチリアーナ」
○ モーツァルト作曲 ピアノ協奏曲第23番から第2楽章
○ ブラームス作曲 交響曲第3番から第3楽章
○ リスト作曲 パガニーニ大練習曲から「ラ・カンパネッラ」
○ ビゼー作曲 交響曲第1番から第2楽章
○ グルック作曲 歌劇「オルフェウス」から「精霊の踊り」
○ ベートーヴェン作曲 交響曲第6番「田園」から第1楽章
○ ブラームス作曲 弦楽六重奏曲第1番から第2楽章
○ バッハ作曲 「パッサカリアとフーガ」ハ短調
○ アルビノーニ作曲 「弦楽とオルガンのためのアダージョ」
○ マルチェルロ作曲 オーボエ協奏曲ニ短調から第2楽章
○ ハイドン作曲 弦楽四重奏曲第41番から第2楽章
○ マーラー作曲 交響曲第5番から第5楽章「アダージェット」
等々
このような曲を妻や兄夫妻と聴いたのは、医療センターでの療養生活の幸福なひと時だった。
15.思い悩む
―11月~12月(その3)―
私は思い悩み、眠れない夜を過ごすことが多かった。
悩みの正体は、いくつかのことが複雑に絡んでいた。
第一は、これまでの生き方の転換である。仕事人間を口実に、いつも外にばっかり意識が向いて、家庭のことや子供の育児をおろそかにしてきたことを深く反省している。これからはもっと家庭を大切にし、長男T彦を社会的に自立できる人間に育てあげなければならないし、地域社会との関わりも大切にしていこうと思う。しかし、本当に自分はそう変われるだろうか。
第二は、私の存在が職場からとり残され忘れ去られたことである。私はこれまで自分だからこそ仕事をやり遂げてきたと自負してきたが、それは誤りで、後任がしっかりと任務を果たしている。また、たとえ職場に復帰できたとしても、今の生活テンポに慣れた自分には、ふたたび激務をこなせないのではないか。
第三は、銀行、金融論の研究をライフワークとし、大学教授を「夢のまた夢」と目指し、その機会がたまたま訪れようとしたが、はかなくも挫折したことである。この挫折は大きかった。これまで銀行や金融に関する本を書き、いくつかの大学で講義してきたのは何だったのか。研究は生涯続けたいが、次の機会は訪れるだろうか。たとえ訪れたとしても、その時手足の麻痺は回復しているだろうか。それより何より、この数ヵ月間資料や情報を読んでトレースしていないし、生きた情報源からすっかり遠ざかってしまった。果たして、研究に戻れるだろうか。
第四は、私の手足の麻痺の回復には途方もない年月がかかるかも知れないし、麻痺のまま後遺症として残るかも知れないということである。私は誤解しており、血漿交換やガンマ・グロブリン投与のような治療を続けていけば、手足の麻痺は回復すると思っていた。しかし、すでに治療は終わっている。O先生もN先生も私の手足の麻痺が果たして回復するのか、回復するとしてもいつ回復するのかはまったく分からないと言う。妻をはじめ家族、身内の介護はいつまで続くのか。
実際は、このように問題がきれいに整理できるものでなく、一つの問題を考えていると、他の問題もつながって出てきて、絡み合った。
これらは入院後起こった問題であるが、それ以前の問題も頭をもたげた。職場で自分の能力もわきまえず、あれもこれもと手を出し肝心なところでヘナヘナと腰砕けとなった。仕事人間を自称しながらも、仕事で大成できたわけではない。
職場は私を米国夏期ビジネス講座に2ヵ月間派遣し、その後日米会話学院の企業委託科に半年間派遣してくれた。しかし、私は国際派のビジネスマンにも英会話の達人にもなれなかった。
また、金融論、銀行論をライフワークとして自力で研究してきたが、到底金融界を代表するエコノミストにも論客にもなれなかった。
すべて中途半端でモノにならなかった。自分でも不甲斐ないと思う。人生に「ホワット・イフ」は許されないが、もし人生をやり直せれば、目標をもっと身の丈に合わせ、馬鹿になりきり、それにだけに専念していきたい。
それから、もっと辛かったのは、これまでの出来事が次々に思い出され、フラッシュ・バックのように私を襲ったことである。仕事上の判断ミスや甘さ、気まずい出来事などが止めどもなく次から次へと思い出された。これは耐えがたい、苦しい体験だった。まったく逃げ場がなかった。これまで自分は本当に大事なことが少しも分かってなかったと、悔やむことが多くあった。これまでの自分は何であったのかと。
「見えざる大きな力」についても考えてみた。
「見えざる大きな力」の正体は何か、畏れ多いが、私は神様を追い求めようとした。
私は敬虔なクリスチャンでもなければ熱心な仏教徒でもないが、宗教には関心があり、それなりに本も読んできた。『新約聖書』はもちろん、『旧約聖書』の代表的な五書、『コーラン』、原始仏典、大乗仏典の代表的なもの、あるいは仏教や禅の解説書などを読んで考えてきた。
私は、宗教について次のように考えている。
神様は、人智を超えた全てを司る「絶大な力」として存在するのではないか。ユダヤ教もキリスト教もイスラーム教も同じ神様からの教えをその時の預言者、モーゼ、イエス、マホメットがその民族の歴史や地理的状況に合うように伝えたのではないか。モーゼはユダヤの民に選ばれし民としての戒めを、イエスは貧しい弱い立場の人々に愛を、マホメットはアラブの民に神様への服従と戒律を強調したが、共通して流れているのは、絶対的な神様がおられ、人をはじめすべてを大きな愛の力で包んでいる、人はそれに目覚め、神様を信じ、神様に感謝し、心清らかに生きていかなければならないと。
仏教はちょっと分かりにくい。とくに「空」の論理などは、いくら考えても私にはよく分からない。しかし、原始仏典で言っている基本は、釈迦は修行することにより悟りを開き、生老病死の四つの苦しみから救われるとしている。世は「無常」であると悟り、「我」への執着すなわち煩悩をなくし、無心の境地に達したとき、すべての苦しみから救われる、と。
しかし、私はこれに対して根本的な疑問をもっている。なぜ生きることは苦だととらえたのか。人生は苦難を克服して本当の喜びがあり、老いることは人生を経験し成長することであり、病気があるから健康が大切となり、死があるから今ここを大事に生きることになるのではないか。生老病死を苦ととらえたら、生きること自体を否定することにならないか。皆が出家し修行僧になったら経済社会が成り立たないばかりか、人類が滅亡してしまうことにならないか。
やはり、釈迦のあの時代は、生きることが過酷であり、「輪廻」から解脱し(解放され)涅槃の世界へ行けることが救いだと、皆が思ったのだろうか。
もっとも、仏教が宗教として確立する過程で、仏教自体が変貌していき、釈迦に帰依し釈迦の教えを守ることにより極楽浄土に行けると、釈迦が他の宗教の神様と同じ存在となったのだと思う。「神仏のご加護」という言葉も、本地垂迹説もまさにそれを示している。また、禅などは、宗教観というより生き方を説いた人生哲学的な要素が強いのではないか。
「神は細部に宿る」と言われるように、神様の力はあらゆるものに及んでいるが、それを複数、あるいは別個と考えた場合、ギリシャやローマの神々であったり、日本の八百万の神であったり、あるいは山などをご神体としているのではないか。
なお、日本の神道には先祖崇拝の氏神思想が、土着宗教には豊作や繁栄祈願が混ざっているのではないかと考える。
したがって、私は、各宗教の違いは流儀や派閥などによる形式的なもので、各宗教の指し示す神様そのものは同一なのではないかと考える。キリスト教で言う「愛」も、イスラーム教で言う「思召し」も、仏教で言う「慈悲」も、同じではないか。宗教は、偶像崇拝したり、形式や教義の枝葉末節を重んじたりすべきではないと思う。もちろん、ご利益宗教は邪道だと考える。
これまでの人生で出会った宗教に関係した疑問などと併せ、毎夜、神様の存在について思いを巡らした。
夜眠れないから考えごとをするのか、あるいは考えごとをするから眠れないのか、分からなくなったが、次第に後者に傾いていった。
12月に入った頃、看護師が私の様子を心配し、N先生に相談し睡眠剤を出してくれた。私は、眠れない原因がはっきりしているし、本当に体が睡眠を必要とすれば薬を飲まなくても眠れると思っていたので、当初は飲むつもりはなかった。
しかし、これは軽い薬で害はないと言われたので、試しに飲むこととした。飲むと、こせこせした気持ちから解放され、楽で落ち着いた気持ちとなった。しかし、果たせるかな、同室の睡眠剤を飲んでいる人が気持ちよく寝息をかいて寝ているのに対して、私にはあまり効かなかった。相変わらずほとんど眠れず、考えを巡らしていると、白々と夜が明けていった日が続いた。
16.3回目、4回目の危機
私は、またもや昏睡状態に陥った。
12月29日、朝食をとった後の9時頃、突然睡魔に襲われるように意識不明の昏睡状態に陥った。看護師が名前を呼んでも体を揺すっても反応がなかったので、N先生が呼ばれ、すぐ人工呼吸器を喉に、点滴を腕に、経管栄養の管を鼻から胃に、尿の管を膀胱に、その他酸素濃度や心拍数を測る計器もとり付けた。
看護師Nさんから妻に、意識不明になったのですぐ来てほしい、との電話が入った。妻は、まったく予期せぬ知らせに驚いたようだ。昨日夕食の介助をした時は、私が差入れまで美味しそうに食べ、何の異常もなかったからである。
妻は年末の休みに入っていた長男T彦を連れ駆けつけた。兄夫妻は、父母の墓参りに行く途中携帯電話が入り、急遽引き返し駆けつけた。次男M彦は、派遣された病院で忙しかったようだが、昼には車を運転し駆けつけた。義姉夫妻も来た。
私は、昏睡状態の覚める3時半の少し前あたりから意識がおぼろげながら戻り始めた。その時、何か2つのことについて結論を出さなければならないと必死にもがいていたのを覚えている。
私は、あたりの様子も掴めてきた。家族が集まり医師も看護師もいるようだ。私は、またもや危篤に陥ったのだろか、昏睡状態に陥ってどのくらい経ったのだろうか、何日もということはないだろう。しかし、目を開けようにも金縛りにかかったようで、全然力が入らない。しばらくすればひとりでに目が開けられるか、もしかしたら、私はこのままになるか、などが頭に浮かんできた。そうだ、2つの問題を解決しなければ、今まで夜寝ないでいく晩も考えてきたことは、徒労に帰するではないか。
私は必死であった。私は無意識に「神様を心から信じます。神様を心から信じます。………」と心の中で叫んだ。その時、とてつもない大きな温かな何か力のようなものに包まれ、問題が一気に氷解したような確信が全身に走り、目が開いた。この「確信」については、消えないうちに後でゆっくり考えることとしよう。
私は皆に「ご心配をおかけしたが、ただ眠くなり眠っただけで、このとおり元気です」と言いたかった。しかし、私の喉には人工呼吸器がとり付けられていたため、一言も発することができなかった。アカサタナ方式で「大丈夫」と伝えた。私は、今まで効かなかった睡眠剤が蓄積され、それが一度に現われたのではないかと思っていた。しかし、実際は、N先生が処置したように重大な事態に陥っていたのかも知れない。
皆はほっとしたようで「よかった、よかった」と言ってくれた。今度も皆に本当に申し訳ないと思った。この時以来、私は睡眠剤の服用は一切やめ、就寝時間になれば、考えごとはせずにすぐに眠るように一生懸命心掛けた。眠れない日もあったが、そう努めることが私の義務だと思った。眠る方法をいろいろ試してみた。
次男M彦は、ただ一人腑に落ちない顔をしていた。後で妻から聞くと、M彦は「ここの医師は慎重過ぎて困る。だいたいいったん人工呼吸器を外した患者が、ふたたび付けたなんて話は聞いたことがない」と言ったそうだ。明言は避けたが、「大騒ぎすることではない」と言いたかったようだ。
しかし、とにかく、私は8月初めICU(集中治療室)から「重病人室」に戻った時と同じような処置が施された。つまり、約5ヵ月前に戻ったわけである。
私は「ああ、また元に戻ってしまったか」という暗澹(あんたん)たる気持ちになったが、一方では、これは寝溜めをしただけだから、医師がよく診断してくれればすぐ元に戻してもらえるという自信があった。
私は、看護師を通して先生に人工呼吸器を付けていても食事はできるので、経管栄養から普通食にするようにお願いし、1月7日に普通食にしてもらった。前の経験から普通食をとることが体力を回復する近道だと信じていた。
これについて、今度はベテランの看護師と話したら、その看護師は「それは逆です。体力がついたので、普通食が食べられるようになったのではないですか」と言った。その時はそういう考えもあるかと妙に感心したが、今ではそれは断じて間違っていると思う。
点滴や経管栄養で命はつなぐことはできても、それで体力がつき健康を回復することはない。体力のあるうちに普通食に戻さないと、現状維持から衰弱に向かうのではないかと思う。
ただし、経管栄養から普通食に戻る際には燕下(=食べ物を飲み込むこと)ができなければならないとは思う。
私は、全然手を使えず、スプーンも箸も握れず、食事に全面的な介助が必要であった。妻は、看護師が何人もの介助に忙しい時には私が相当待たされることを知り、また自分が忙しい看護師の一助になれればと考え、妻は昼食時と夕食時には必ず来て、私の食事を介助してくれた。
続いて1月8日から昼間だけ人工呼吸器が外された。夜間も外すのは、O先生の当直である14日になった。体力がつき、自分の力で呼吸できるようになると、人工呼吸器は煩わしくなってくる。それより何より、再度経験した話せない不自由さから一日も早く解放されたいと思った。
今回は、酸素供給も外したので、人工呼吸器の管が外されと同時に、喉にふたたびスピーチカニューレを付け、話すことができるようになった。
また、この頃、心拍数や血中の酸素濃度を測る器具もとり外された。1月26日に尿の管が外され、29日にすべての点滴の管が外された。つまり、1ヵ月で元の状態になったことになる。
実は、この回復過程で、もう一つの危機が訪れた。この時は大したことはないと思っていたが、今振り返ると、こちらの方が非常に危険な状態ではなったかと思う。それは左足に静脈血栓を起こしたことである。
1月9日の午後、左足の点滴しているところに、痛くはなかったが、血栓が生じ、静脈が詰まりむくんで腫れ始めた。私は気づいたが、点滴は終っていたので、そのまま放っておいたら、リハビリの時にT先生に指摘された。部屋に帰って看護師に伝えた時には、左足がまるで丸太のように腫れ上がっていた。
N先生が駆けつけ、血栓を溶かす薬を動脈に点滴した。普通、点滴は静脈に行うものだが、この時は動脈にした。点滴の針を強く固定させ圧力をかけ点滴をした。かなり痛く感じた。それとは別の点滴もした。それらの点滴が何日も続いた。それに左足の下にクッションを入れ、左足を高くもした。
左足3ヵ所に印がつけられ、毎日その3ヵ所の太さが測られた。2週間程度で大きな腫れはひいたが、その後半年経っても左足は右足より太かった。
しかし、腫れが少しずつひいたことが幸いした。もし、一気に血栓が静脈を通って心臓から肺に回ったら、心肺血栓で死亡していたか、心臓と肺の機能の一部が麻痺していただろう。これも適切な処置をしていただいたと感謝している。
17.「確信」の中身
妻は「今年の暮れから正月は、さんざんで、生きた気がしなかった」と言う。私が年末に「意識不明の昏睡状態に陥った」と医療センターに呼び出され、年末年始は私の介護に振り回されたからである。本当にすまなかったと思う。
さて、この平成14年(2002年)正月は私にとり喪中であった。昨年私が入院する3ヵ月前に母を亡くした。母は兄夫妻と20年ほど同居し、とくに義姉J子さんには言葉で言い表せないほどお世話になった。
8月の新盆には親戚が集まったが、私は入院中でとても法事に出られる状況になく、また、親戚に心配をかけたくなかったので、不自然であったが、「急遽出張中」ということで、欠席することとなった。兄夫妻には大変迷惑をかけた。母とのことではいろいろ書きたいことがあるが、ここでは割愛する。
私は喪中の年末挨拶状をどうするか考えたが、自分で名簿管理ができず、宛名書きもすべて妻に任せていることから、年末は喪中の挨拶状は一切出さず、年賀状が来た先だけ年始後に欠礼の挨拶状を送ることとした。
いつか年賀状を整理しなければならない時がくる。これは、その始まりかも知れない。
1月から看護師のグループが交替した。4ヵ月ごとの定期的交替で、これで神経内科・脳外科のすべての看護師にお世話になったことになる。私も「重病人室」に長くいることになったものだ。
普通の患者は、手術後1~2週間程度で回復し、隣の一般病棟へ移るか、悪化しICU(集中治療室)へ移り、不幸にも亡くなるかであり、半年以上もこの「重病人室」にいることはまったく稀である。
新しいグループの看護師はこれまでにも応援で来てくれた顔馴染であった。やはり、皆献身的で優しい人達ばっかりであった。Tさんは「看護師になるためには国家試験に合格しなければならず、看護学校ではそれまでの学校生活の中で一番勉強したんですよ」と話しており、看護師という職業に対するプライドを持ち、そのひたむきさに好感を抱かせた。
ただ、後で述べるように、私は2月に「重病人室」から一般病室に移ったため、12月までの看護師グループにふたたびお世話になることとなった。このため、今回の看護師に接したのは短い期間であった。
1月15日に花粉症の薬を飲んだ。前に述べたように、妻は私がステロイド系の薬を飲むことに強く反対していたので、私も最小限に抑えて服用することで納得してもらった。
さて、3回目の危機の際に私のえた「確信」について考えてみた。
11月より自分のこれからの生き方と神様の存在について考えてきたが、次のように方向を転換した。
これまでの神様の存在と宗教上の疑義についていろいろと考えを巡らせてみてきたが、これには際限がなかった。手元には原典も体系的な解説書もなく、メモをとり整理することができなかったため、考えは堂々巡りをした。考えれば考えるほど、迷路の中に迷い込み、迷路の中で方向を見失ってしまった。
「宗教と何か」については、これまで古今東西の碩学が人知の限りを尽くし、各宗教が組織の限りを尽くし挑んでいる問題である。それをど素人の私が一人取り組もうとしたのは、ドン・キホーテが風車に突撃するのと同じではないか。やはり「身の丈」にあったテーマに絞るべきでないか。
そう考えると、大きく宗教全般として考えるのではなく、私の個人的な宗教体験に絞り、私がどのように神様の存在を感じたのか、私が生かされた意味は何かについて考えるべきだと思った。
3回目の危機の際にえた「確信」は、その方向転換を「よし」とするものであると同時に、それらの問題はもう答をほぼえたとする「内なる声」だったのではないか。
私はこの病気に倒れ、何度も生死をさ迷った。私はそのたびに、畏れ多いが、神様の存在を感じた。その姿を見たとか、声を聞いたとかいうのではないが、途方もない大きな力に包まれ救われたという感じを体験した。自分が何ともか弱い、小さな小さな存在であった。震えるような思いで、私は「生かされている」のだと、全身で感じた。これは理屈ではない。確かにそう感じたのだ。
かつて立花隆が『宇宙からの帰還』(中央公論社刊)で、ほとんどの宇宙飛行士は宇宙飛行する中で神様の存在を身近かに感じたと、異口同音に語っている。それに似ているかも知れない。
神様を云々するのは畏れ多いのではないか。あの体験を理屈で考えるのではなく、素直に受けとめ、神様に生かされていることをただありがたく感謝すべきものではないか。
各宗教が別々に神様をとらえているが、本当は、神様はそんな既存のあらゆる宗教や教義の枠をはるかに超越したところにあるのではないか。神様は民族や地理的制約を超え、いつでもどこでも人々を大きな大きな「愛」をもって、広く優しく包んで守っておられるのではないか。
私が生かされた意味は何か。神様の存在を信じ、神様に感謝して生きていくことではないか。明るく積極的に、今ここを精一杯に生き生きと。
私がこれまで避けてきた家庭や妻と子供に対しても、正面から取り組み尽くしいくことにあるのではないか。受ける方ばかりが多くなるかも知れないが、できれば人や社会に貢献していくことではないか。
思い残すことのないように、命の限り、今ここを精一杯に生きていくことではないか。
神様は、そのための機会を、再び私に与えてくれたのではないだろうか。
これが私のえた「確信」の中身である。
このことがあって以来、私の生活は一変した。全身がうち震えるような思いで、私は神様に「生かされて」いるのだと感じ、喜びが全身から湧きあがってきた。すべてが新鮮で驚きで、ありがたく感じた。
例えば、不味いと思っていた病院食が、ありがたいご馳走となった。世界には、何の心配もなく三度さんどの食事ができる人ばかりだろうか。先史以来人類数十万年の歴史の中で、何の心配もなく食事ができるようになったのは、ここ数十年足らずの間ではないか。今でも地球上には四分の一の人が明日の食べ物にも、明日の暮らしにも困っているという。
それに引き替え、今の私は何の心配もなく食事をいただける。何とありがたいことか。野菜なら季節の中でその一番美味しいところを調理され、肉や魚でも同じく一番美味しく調理されて、食卓に供されている。一口ひとくち感謝していただくようになった。
口にするものばかりでなく、目にするもの、耳にするもの、手にするものすべてが新鮮で驚きであり、ありがたく感じる。
人に対しても感謝の気持ちが湧き上がってきた。家族、医師や看護師、同僚や友人など、今回私が病気で接した人々に。思い起こせば、何不自由なく育ててくれた両親にも。
そうだ、私は何と恵まれた環境に生きてきたことか。人にも、環境にも、すべてに恵まれたきた。
毎日が、日々新たな日として迎えている。今日という素晴らしい機会を。今日というありがたい機会を。私は「生かされて」いる。
私は、今、数十万年の人類の歴史の成果と恩恵の上に立ち、かつ、広大無辺な宇宙の中、地上でもっとも豊かで恵まれた「今ここ」に生かされているのだ。
今は冬であるが、春になれば一斉に芽吹き、こぼれるように花が咲き、やがて草や木が新緑に燃え、緑に輝き、生い茂っていく。
生きとし生けるもの、森羅万象すべてが新鮮で、美しく、驚きである。
私は、神様に感謝し、今ここを、今日という素晴らしい、ありがたい機会を精一杯生きよう。
18.われら戦友
当初の予定では、2月に所沢市にある国立身体障害者リハビリテーションセンター病院に転院する予定であったが、2月になっても国リハ病院から何の連絡も来なかった。1月中は年末の意識不明状態から回復する期間としてこの医療センターにいる必要があり、1月中に連絡が来なかったことはむしろ幸いした。
しかし、2月になっても連絡はなかった。こちらから連絡をとっても「転院を受け入れられるようになったら連絡するから」と言うだけで、何の音沙汰もなかった。医療センターとしては、長く居続ける私をもてあましていたのではないかと思うが、私としてはどうしようもなかった。
2月6日に「重病人室」から一般病室である隣の261号室に移った。妻は「回復したから1ランク上がった」と喜んだが、私には素直に喜べない事情があった。261号室はナースステーションから離れるばかりではなく、看護が「重病人室」のような至れり尽くせりではなくなり、特別待遇からワン・オブ・ゼムの待遇となるからである。
「重病人室」は、先にも述べたように1部屋で看護師1グループがあたっているが、一般病室、261~6号室の6部屋併せて「大部屋」と呼んで、1グループがあたっていた。単純計算すると、看護の割合が六分の一の薄さになる。さらに「重病人室」が6人部屋であるに対して一般病室は8人部屋であるため、その差はさらに拡大する。
2月27日に262号室へ移動した。
私も、これまでのようにわがままを言い、看護師に手間隙をかけさせることは許されなくなった。「大部屋」に移ってからは、CDラジカセやテレビは皆がイヤホンで聴いていたので、私もイヤホンで聴くこととした。
しかも、「大部屋」ではCDラジカセをかけるような医療行為でないことを看護師にお願いしにくくなり、また、妻や身内が来た時に話もしないで、自分だけCDラジカセをつけてもらい、イヤホンで聴いているわけにもいかなかった。
そこで、CDラジカセでクラシック音楽を聴くことはあきらめ、自宅に持ち帰ってもらい、テレビはニュースのような定例的な番組だけを看護師につけてもらい見ることとした。
代わりにパソコンを自宅から持ってきてもらい、パソコンに内蔵されている「フリーセル」というゲームに夢中になった。パソコンをもっと創造的なことに使うべきであったかも知れないが、インターネットは病院内では医療機器に影響することからで使えず、また、ワードをマウス1つで操作できるプログラム、「ソフト・キーボード」がウィンドウズに内蔵されているとは、迂闊にもこの時は知らなかったからである。暇な時はゲームにはまっていた。
私は、自分勝手のように見えるが、パソコンは開いて電源を入れてもらえば、左手の薬指が僅かに動くのでマウスは操作できるが、CDラジカセはおろかテレビのリモコンも操作できず、看護師にお願いするしかなかった。
新聞や本を読みたいので、少しは看護師にお願いしページを開いてもらったが、やはり妻に頼むしかなく、なかなか読めなかった。そんな中で、時間のある時是非じっくり読み直してみたいと思ってとって置いた本があった。遠藤誉著『チャーズ』(上下二冊、講談社文庫)である。
満州で製薬会社を経営していた一家が敗戦の中で必死に生きのびていった体験を綴ったノンフィクションで、死の怖さと生への渇望、生きることの意味を教える本である。著者は、山崎豊子の『大地の子』を『チャーズ』の盗作として訴えていることでも知られている。妻にページをめくってもらいながら一言一句を噛みしめた。
私の交友は職場仲間と学校仲間に限られ、地域や趣味によるサークルには入っていない。私は忙しかったこともあり、これまで自分から仲間を求めることはしなかった。しかし、入院生活で考えも変わり、新しい世界での知合いができた。
そうした中で、Mさんは、私がICU(集中治療室)にいて生死をさ迷っていた頃からの付きあいである。奥様がくも膜下出血で、同室の「重病病人室」に入院されており、Mさんが一日3回食事時に来られ食事の介助と、その都度手足のマッサージをし、朝鮮人参茶と椎茸エキスを飲ませていた。もちろん、その頃私は話せなかったが、私にも声をかけ、手足のマッサージをしてくれた。もっとも、看護師たちは、面会時間も無視し一日中「重病人室」に入りびたりのMさんを煙たがっていたようだが。
私が話せるようになった時、Mさんはわがことのように涙を流し喜んでくれた。奥様の回復は早く、10月頃には歩けるようになり、11月には元気に退院した。退院後も病院に来た時は、必ずよって私を励ましてくれ、転院後も妻に絵葉書や電話で温かい言葉を寄せてくれた。
Oさんとも長い付き合いとなった。ご主人は歯科医をされていたが、脳梗塞で入院された。奥様が看護に来られ、私の妻と親しくなった。国立リハビリテーションセンター病院には私より先に転院され、その様子を教えてくれ、非常に助かった。
別なOさんとも長いお付き合いになった。ご主人は銀行員で、くも膜下出血で倒れたようだった。私の転院時に自宅に退院された。奥様が気さくで面白い方であった。
両Oさんと妻とは、ともに主人が仕事人間で、家庭を顧みず、さらに酒飲みだったという共通することがあったため、意気投合し親しくなった。それぞれの主人が病気と戦っていることから「戦友」と言っていた。
19.転院に向けて
私は転院前に医療センター内でいくつかのことをした。
1月28日にセンター内の眼科で検眼をしてもらった。もちろん、妻に車椅子で連れて行ってもらい、すべて手続きをしてもらった。
入院以来半年以上メガネを外しっ放しでいたが、最近になり本や新聞を読む時にメガネをかけさせてもらうと、度が合わないような気がしたからである。
検眼してみると「まだ今のメガネで大丈夫です」と言われ、ホッとした。メガネを調整するとなると、費用もかかるが、それ以上に、入院していると調整する手間が大変だと思っていた。
2月18日に歯科で歯石をとってもらった。これも妻に連れて行ってもらった。
大学病院の歯科は重傷者だけが来るところなので、歯科医は面食らったようだ。私としては健康時には職場近くの歯科医に毎月1回通い、歯石をとり歯全体をチェックしてもらっていたが、今回の入院後は半年以上も歯科医に行っていなかったので、是非行きたかった。
手間をかけさせたが、口の中はスッキリした。きちんと手入れをしておけば、入れ歯になるのはずっと先に延ばせるだろう。何しろ、私も60歳を迎えようとしているのだ。
理髪の方は、病院に出張してくる理髪師に約2ヵ月ごとにしてもらっていた。
2月16日に喉にとり付けてあるカニューレをとり外した。入院した時に喉を切開し人工呼吸器をとり付けて以来、喉の内側にとり付けたので、約8ヵ月間付けたことになる。
外したことにより、スピーチカニューレではなく、入院後初めて自分の肉声で話せるようになった。ただし、喉を切開した穴が開いているため息が洩れ、話す時は一言ひとこと息をしなければならなかった。
穴は自然に塞がる筈であったが、8ヵ月間も開いていると、なかなか塞がらなかった。
しかし、私にとっては嬉しかった。「怪獣の声」から自分の声に戻ったわけであるし、点滴の管も今はとりつけていないので、四肢麻痺を除けば、健常な人とは変わりなくなったことになる。私は着実に健康になっているのだ。
私は3つのことを心掛け健康の回復に努めた。強い願望とよく食べることとよく休養をとることである。
強い願望は、「絶対に元気になる」という強い希望である。元気になり、手足が動けるようになり、行きたい旅行に出かけた姿などをイメージし、潜在意識に強く働きかけた。
K部長が手紙の中で「陽気に笑うことが健康によい。アメリカのある病院で、患者に笑うことを療法としていたら、癌が治ったという報告がある」と激励してくれたが、私自身積極的な思考、潜在意識への働きかけが限りない力を発揮するという、いわゆるアメリカのニューソートの信奉者である。この機会にその力の実現を試みたいと思っている。
よく食べることについては、病院食を前述のように一口ひとくちをありがたいものとしていただいている。
さらに、病院に特別にお願いし牛乳とヨーグルトを毎食付けてもらった。牛乳には自宅から持参したミロを入れミネラルを採り、ヨーグルトにはきな粉を入れ、動物性蛋白と植物性蛋白を摂取するよう心掛けた。
よく寝ることについては、前述のように三度目の危機以後、夜は考えごとはやめ、ひたすら眠ることを心掛け、いろいろ試みた。
私は眠りにつくコツのようなものを会得した。これまで何十年も不眠症で寝付きが悪かったのがウソのようであった。まず、寝付く時は考えごとをやめ、心配ごとは持ち込まなく、気持ちを整理しておくことである。次に、眠ろう、眠ろうと気負って力んではいけない。それに代え、大きな力に身を委ね、安らぎと幸福に包まれているとイメージすることである。そうすると、数回呼吸するうちに深い眠りに落ちていく。
こうすると、夜中に目が覚めても、時計を見て時間を確認した後、またすぐに眠りにつくことができるようになった。
このように健康回復に努めたことにより体力も少しずつ戻り、体重も回復し50キロ台になった。
3月になっても、国立リハ病院から連絡が来なかったので、N先生が回診で来られた時妻と一緒に先生に話したら、先生は「(転院は)サクラの季節か、それともアジサイの季節か」と言って笑った。医療センターには何か連絡が来ているかと思ったが、実際のところはよく分からなかった。
温かくなったので、車椅子で遊歩道への散歩も再開し、よく見納めておいた。枯れていた草木が一斉に芽吹き、その色が薄緑から濃さを増していった。白や黄色の名も知らない花々があちこちに咲いた。サクラも今年は暖冬のため2~3週間早く咲いた。
医療センターは私が入院する前から増築工事をしていたが、3月に完成した。増築のD号棟は100床あり、脳外科と神経内科が分離された。本来なら私は神経内科なので別な病棟に移る筈であったが、転院が決まっていたのでそのまま同じ病室に置かせてもらった。
理学療法室も、地階からD号棟の2階に移った。従来の部屋に比べ、明るく、3倍くらい広くなった。午後は、そこにリハビリに通うこととなった。
ついに、4月4日に待ちに待っていた国立身体障害者リハビリテーションセンター病院から連絡、すなわち4月15日に転院を受け入れるとの連絡が来た。
転院するにあたり、当日は早朝で忙しいことが予想されたので、O先生、N先生、看護師、看護助手の皆には前もって挨拶をした。とくに看護師には、シフトや担当グループがあるので顔を会わせる機会にその都度挨拶した。
後日、H看護師長が私の元気な姿を見て、目に涙を浮かべ、「今だから失礼になることを言えますが、生きていて本当によかったですね、本当によかった………」と言ってくれた。この言葉に、この医療センターにおける9ヵ月間の入院生活は象徴される。
20.国立身体障害者リハビリセンター病院
4月15日、東京医科大学八王子医療センターから、埼玉県の所沢にある国立身体障害者リハビリテーションセンター病院へ転院した。
義兄が寝台車に同乗し、義姉と長男は妻の運転する車に乗り、寝台車の後を追った。
寝台車は消防署の救急車と同じ造りで、民間の業者にこのような車があることを、私はこの時初めて知った。サイレンも鳴らさず、赤いランプも点滅させずに走り、約2時間で所沢の国リハ病院に着いた。車内では寝台にベルトで固定され、車外が全然見られないため、天井ばかり眺めていた。少し蒸し暑く、揺れもあり、快適とは言い難かった。
国リハ病院は、かつて米軍の飛行場が国に返還された22万平方メートルの広大な敷地の中にあり、その敷地内には身障者のための「職業リハビリテーションセンター」、言語聴覚師、補助装具師などを養成する「学院」、「研究所」、医師、看護師、職業リハ受講者、学院生のための「宿舎」が併設されていた。
私は4階の421号室の廊下側、後に窓側のベッドに入った。病室は2、3、4、5階にあったが、各階は病状により分けられているのではなく、リハビリの程度により分けられているようであった。421号室は、私のように神経内科にかかっている人から外科、脳外科などにかかっている人もいた。
私の主治医は神経内科のK先生で毎朝顔を出し様子を聞いてくれた。若干せっかちで、ズバズバと言いにくいことも平気で言うが、根は非常に親切であった。
私の筋電図をとり詳しく調べ、「重症で末梢神経が壊滅的にやられているので、回復するかどうかまったく分からない。回復するとしても、月単位でなく、年単位だ」と言われた。先生には装具購入の申請書をはじめ各種の書類作成にあたり大変お手数をおかけした。
また、私の様子を診ながら、それまで服用していた痰の切れをよくする薬をやめ、血行をよくし神経痛に効くビタミン剤に変えた。まだ暫くの間、花粉症の薬は飲んでいたが、「最近はステロイドを使わないいい薬が出た」からと、花粉症の薬をステロイドを使わない薬に替えてくれた。
私の担当の看護師はベテランのAさんであった。妻がAさんに、私がいかに仕事人間で家庭をないがしろにしたかを縷々訴えたので、Aさんは私達の夫婦仲を心配し、私にいろいろと助言を授けた。その他にお世話いただいた看護師はいずれも個性的で、話してみると面白い人ばっかりだった。
ここの病院では自活させることに主眼を置いており、自分でできることは時間がかかっても自分でさせ、厳しかった。また、概して、看護師は決まったこと以外は何もしてくれなかった。前の八王子医療センターの「重病人室」で至れり尽くせりのいい思いをし過ぎたためか、待遇のギャップの大きさに驚いた。これは公務員だからかとも思ったが、自活のためだと自分に言い聞かせ、我慢することとした。
看護師の他、人生経験豊かな看護助手にも、学院生のモーニングメイト、アルバイトのイーブニングメイトにもお世話になった。
国リハ病院について、私は若干の行違いと重大な誤解をしていた。
まず介護について若干の行違いがあった。国リハ病院の案内書には「完全介護のため、原則として家族の介護はいりません」と書かれてあったので、妻は週に1回替え着を持ってくる積りでいた。この国リハ病院は自宅から遠く、自動車で往復するのに4時間半かかり、介護に来るのに一日がかりであったためである。
しかし、病院側は私が四肢麻痺のため「家族が毎日介護に来てほしい。他の患者にもそうお願いしています」と言った。話し合って、結局、妻は火、木、土曜日の週3回来ることとなった。妻の実家が近くにあったので、妻は国リハ病院に来た時は実家にも立ち寄り、帰宅はいつも夜8時過ぎになり、大変であった。妻には来てもらう度にすまないと思った。
この国リハ病院は、土日と祝日はリハビリがなく、何もしてもらえなかった。私のように自分で車椅子に移れない者にとって、日曜日など家族が来ない日は一日中ベッドで静かに過ごす以外はどうしようもなかった。
国リハ病院に転院するにあたって、私は重大な誤解をしていた。
私は、前の八王子医療センターでギラン・バレー症候群の進行に対する医療的な処置はすべて終ったので、国リハ病院はもっぱら自然治癒とリハビリにより麻痺している手足を回復させることにあると思っていた。
しかし、国リハ病院は、私の手足の麻痺は治らないと診たためか、手足の機能を回復させるためのリハビリはほとんど行わず、在宅介護に向けて、現在動く手足の範囲内で、装具を使う訓練が主であった。国リハ病院は、私だけではなく、入院している患者全員に対して、医療的な処理が一応終った段階で受け入れており、在宅介護あるいは社会復帰に向けたリハビリを行っていた。
このため、最初の質問、「このリハビリ病院で何をしたいか」という質問に対して、本来なら「自宅に帰った時、装具を使い自分で食事ができるようにリハビリをしたい」、あるいは「車椅子で自活できるようにリハビリをしたい」というような答が返ってくると期待していたところ、私は「手足の機能を回復させ、自分の足で立って帰れるようになりたい」と答えたので、国リハ病院としては当惑したようだ。
この頃の私は、日中はベッドに起こしてもらい、食事は看護師にスプーンで食べさせてもらい、車椅子にはリフトで移してもらっていた。リハビリ室への往復は看護助手に連れて行ってもらった。
国リハ病院に入院してまず多くの医療上の検査を受け、また、リハビリのメニューを組むため心理、言語のテストを受けてから、OT(作業療法)、PT(理学療法)のリハビリが始まった。
OT(作業療法)は、主に手のリハビリであり、私の場合、M先生の指導で装具を付け食事をする、絵を書く、パソコンを打つ練習をし、手、腕のストレッチもしていただいた。また、私が車椅子で自宅に帰った場合に生活できるように家をリフォームしなければならなかったが、M先生にはそのリフォームの相談、とくにトイレ、風呂場のリフォーム、ベッド、リフトの設置などについて親切に相談、指導していただいた。
PT(理学療法)では、I先生の指導で、電動用車椅子、後に自走用車椅子に乗る訓練や、足膝のストレッチ運動をし、直立台に立たせてもらった。
さらにI先生は、長男T彦に私の手足のリハビリの仕方、妻に乗用車の助手席へ私を乗せる方法、車椅子を後部座席あるいはトランクへ仕舞う方法を教えてくださった。
お蔭で、土曜日やリハビリのない日に妻が来た時は一緒に寿司屋や喫茶店に行くことができた。
なお、K先生から、私は手足は麻痺しているが病人でないので、何を食べてもいい、とのお墨付きをもらっていた。しかし、外出するには病院に届が必要であり、また、食事には肥らない範囲内という妻からの制約があった。
5月9日、耳鼻咽喉科のK先生に喉を塞ぐ出術をしていただいた。先生は面白い方で、「手術の間はお望みの曲をかけよう。手元にはバッハのブランデンブルグ協奏曲とグレゴリオ聖歌があるが………」と言われ、好きなクラシック音楽を聴きながら手術を受けた。初めての体験であった。縫い合わせは首の皺に沿って丁寧に行われ、手術後も先生は定期的に診てくださった。
これにより、私は手足は麻痺しているが病人ではないと、自分でも思えるようになった。
国リハ病院の生活は、午前中にPT(理学療法)、午後にOT(作業療法)があり、空いている時間は、車椅子に座りパソコンや読書をし、朝と夜はテレビを観た。
自宅からパソコンを持ってきてもらい、OTの先生にマウス一つでワードを打てるプログラム「ソフトキーボート」を呼び出してもらった。定例的に時間を決め、看護師にお願いし、パソコンを開いてもらった。
この本の原稿は、国リハ病院に転院してから書き始めた。原稿に気が乗らない時は、「フリーセル」というゲームをした。
国リハ病院で本のページをめくれるようになった。看護師にお願いし本をテーブルに乗せ読み始める個所を開いてもらえれば、読書ができるようになった。妻が私に読ませたい本を持ってきた。今まで私が読んでいた本とは違ったジャンルだった。
○江藤淳著『妻と私』(文芸春秋社)
妻に対してはかくあるべしとの妻の意向で読む。ただし、妻一辺倒でも、妻が亡くなった時に自殺するようでは問題で、自立も必要と妻は言う。
○河合隼雄著『より道わき道散歩道』(創元社)
仕事人間から解放されるようにとの妻の意向で読む。しかし、著者の言う「ゆとりの文化」が何を示そうとしているのかよく分からず、読み応えなし。
○大石邦子著『この生命を凛として生きる』(講談社文庫)
車椅子の著者が寝たきりの母をみとった話。老いと介護を考えさせる。著者の生き方に感動。
○青木玉著『小石川の家』(講談社)
幸田露伴の孫娘が祖父露伴、母文との生活を綴ったもの。ワンマンの世話には周りが苦労すると妻は言う。
本の他、新聞や週刊誌も読んだ。日経新聞は詳しく読んだ。週刊新潮と週刊文春が新聞系と違う視点からニュースを扱っていて面白かった。
テレビは、朝はニュース、夜はドラマなどを観たが、消灯は夜10時のため、2時間のサスペンスドラマなどは途中でスイッチを切らなければならず、まさにサスペンス(宙ぶらりん)となった。
国リハ病院では、私も話ができ余裕もできたので、同室の方とも親しくさせていただいた。
Kさんにお会いできたことが、国リハ病院における最大の成果だったと思う。Kさんは、私と同じギラン・バレー症候群に、私より1ヵ月遅れの前年7月に倒れ、全身麻痺し、喉を切開し人工呼吸器を装着したが、現在では自力でベッドから車椅子にも移ることができ、体を支えられながらも歩いてトイレに行ける。Kさんは85歳である。私もいつかKさんのように回復できるとの希望が湧いてきた。
それに、Kさんは製薬会社の社長を長らくされ現在顧問であるが、気品があり、文化と芸術を愛しレジャーを楽しんでいる。80歳を過ぎてからもスイスにスキーに出かけ、音楽を愛し、ワインについて話せば尽きない。自分も老いたらKさんのようになりたいと思った。家族が交替で来られたが、皆素晴らしい方達であった。双子の孫娘は育ちのよさを感じさせるお嬢さんであった。
Mさんは事故で両足を失い、前の病院で外科の治療は終り、この国立リハ病院で義足を作り、義足で歩く訓練をしている。ほかに手だけで自動車を運転する訓練や、新たにパソコンを習おうとしている。空いている時間はOTの部屋に行き自主トレに励んでいる。
Kさんは、胸椎損傷で下半身が不随であるが、若い方で非常に好感を抱かせる男である。彼も双子の弟という。不思議な巡り合わせで今回多くの双子にあった。いつか「双子の会」を旗揚げしたい。
妻が週3回来たが、そのうち1回は長男T彦が一緒に来た。兄夫妻も隔週日曜日に見舞いに来てくれた。兄は定年を迎え嘱託として週数日職場に行き、あとはパソコン教室に通うなど生活を楽しんでいるようだ。義姉A子さんも、妻と一緒に実家に行きながら見舞いに来てくれた。義姉Kさん、義妹Tさん夫妻も来てくれた。
職場からはH所長、F新所長、K取締役、K部長夫妻、S参事、Oさん、N君、Tさん夫妻が見舞いに来てくれた。それぞれ遠路を忙しいところを来られ、恐縮している。
見舞いに来た人に車椅子を押してもらい、敷地内をよく散策した。敷地内の植木は非常によく手入れされている。中庭には池があって、鯉や亀が泳いでおり、池の小さな島にはカルガモが10匹のヒナを孵化し親の後について歩いていたが、いつからか飛び立った。池の他、築山や藤棚もある。
私が来た時は、サクラはほぼ散り、ハナミズキが咲き誇り、続いてツツジ、サツキが咲き、フジ、アジサイが見事な花を咲かせた。バラも気品を漂わせていた。夏には葉が生い茂り、緑の輝きを増した。
21.新たな出発
今、私は国立身体障害者リハビリテーションセンター病院で、この原稿をパソコンで打ち込んでいる。
そこで、3、4回目の危機を振り返りながら大事なことに気がついた。それは話せること、食べられることのありがたさを改めて感じたということである。普通の人にとっては何でもない当り前のことが本当に素晴らしいことだということを、あの時に心底教えられた。
さらに、振り返れば、倒れて最初の危機に陥った時、2回目の危機で命をとりとめ、全身が麻痺し目が見えなかった時、手足が少し動けるようになった時に、生きている喜び、感謝の念を思い起こさせた。私は「生かされて」いると。
一時は、目を開けることも、話すことも、まったく身動きもできなかったのだ。私は、迂闊にも、私だけに与えられたこれらの貴重な体験を忘れかかったのではないか。
この国リハ病院に来て、いろいろな障害をおっている人に出会った。中には、交通事故によると見られるが、若くして両手足を失い、顔にも酷い火傷をおっている人もいた。そういう人たちも皆元気に頑張っている。ひまわりの林のように一斉に太陽に向かって伸びている。
私の四肢は依然麻痺し僅かしか動かず、一人では食べることもできず、自分の力ではつかまって立ち上がることはおろか、ベッドから車椅子に移ることすらできない。妻をはじめ多くの人のお世話になっている。
しかし、生きていることは素晴らしい。これまで何でもなかった木や草や花が新鮮な驚きを与える。すべてのものが生き生きと美しく輝いている。人や物あらゆるものに感謝の念が湧いてくる。日々新たな日として迎えている。
畏れ多いが、神様の見えざる大きな力を感じる。私は今ここに「生かされて」いると。何と素晴らしいことだろう。
私は、神様に感謝し、思い残すことのないように、今ここを、今日という素晴らしい、ありがたい機会を精一杯生きて生きて生き抜こう。
22.その後―「あとがき」に代えて―
以上は、拙著『生かされて―ギラン・バレー症候群からの生還―』(健友館)をベースに全面的に加筆整理したものであるが、その後現在までの回復過程を「あとがき」に代えて書き添えることとしたい。
2002年(平成14年)9月6日、発症後約1年3ヵ月目に国立身体障害者リハビリテーションセンター病院を退院し、自宅に戻ることとなった。
戻るにあたり自宅をバリアフリーに改築し、電動ベッド、リフトも設置した。
その時の私の状態は、四肢はほとんど麻痺したままであった。ベッドから車椅子に移るのも自分ではできず、妻に電動リフトで移してもらった。車椅子は、自走ではなく、すべて押してもらった。食事は、両手をバランサーで吊り、その両手にはL字型に曲がったスプーンとフォークを装具とともにつけて、それによって食べ物を口に運んだ。飲み物にはストローを使った。
衣服の着脱も自分ではできず、トイレもリフトでシャワーチェアに移し、連れて行ってもらった。風呂は、裸にしてシャワーチェアに乗ったまま体を洗ってもらった。
つまり、四肢麻痺の全面介助の状態であった。
前に入院していた東京医科大学八王子医療センターに、妻の運転する車で週1回リハビリに通うこととした。しかし、週1回40分程度、脳梗塞など他の患者と一緒のリハビリでは手足の機能はなかなか回復せず、むしろ両足の先が内側に反り始めた。
発症後長期間経って関節の拘縮と筋肉の萎縮が進んだためで、これでは手足の機能の回復は難しくなってきたと考えざるをえなかった。この段階では、まだ自分の力でリハビリはできず、理学療法士にリハビリをしてもらう必要があった。しかし、妻に八王子医療センターのリハビリに週1回以上連れて行ってもらうことは、事実上できない状況にあった。
私は焦りを感じた。この時、「ギラン・バレー症候群は治ったが、後遺症として四肢麻痺は残った」と、あきらめざるを得なかったのかも知れない。しかし、私はどうしてもこれからの残された人生を四肢麻痺、全面介助のままで送りたくはなかった。
そんな私に幸運が訪れた。自宅に帰ってから半年後の2003年(平成15年)3月、入院仲間Kさんの奥様に八王子医療センターで会った時に、「訪問機能訓練」の制度があることを教えてもらったのだ。
これは、マッサージ師が自宅に来て、医療マッサージとともに相対で機能訓練をしてくれるものであった。西洋医学と系統が違うためか、八王子医療センターの医師も理学療法士もこの制度を全く知らなかった。この制度を教えてもらわなければ、私は手足の機能回復をあきらめていたかも知れない。
私は、八王子医療センターの週1回のリハビリはそのまま続け、それに加えて、この訪問機能訓練を直ちに依頼し、週4回受けることとした。私を担当したM先生は非常に熱心な方で、私の体の状況をよくみて毎回工夫して機能訓練をみっちりしてくれた。
最初は、ベッドで寝返りも打てない状態であったので、あお向けのまま片足ずつ引き寄せ膝を立てる訓練をした。しかし、足に力がないため、足先を引き寄せるのに体が震え汗がにじんだ。次に、体をうつ伏せの状態にしてもらい、胴を持ちあげ四つ這いにしてもらった。それも体がすぐに崩れてしまうため、M先生は大変だったと思う。四つ這いの状態で片足ずつ曲げ伸ばしをした。
歩行器につかまり、立った姿勢を維持する訓練もしたが、これも体が崩れるため、長く保てなかった。妻は、私を「糸の弛んだマリオネットのようだ」と言った。歩行器につかまり、歩く前の段階として足踏みもした。
暑い季節に向かっていることもあり、毎日、汗だくになり、何度も着替えた。来る日も来る日もリハビリに励んだ。暫くすると、自分でもできるリハビリの範囲が広がってきたため、空いている時間は、休みを入れながらひたすらリハビリに打ち込んだ。
訓練が始まってから半年間で、驚いたことに、足腰が少しばかりしっかりとしてきて、脚に装具をはめ室内で歩行器を使って歩けるまで、メキメキ回復した。自分でも信じられないほどの回復だった。
この時なって、本当の意味でのリハビリの必要性が分かり、それこそ本気になって取り組んだ。
私は、またしても、この時まで一番大事なことが少しも分かっていなかったのだ。
私のように非常に重症で、診断が遅れ、治療が遅く始まり、しかも60歳と高齢である場合には、自然治癒力(=自己回復力)がきわめて低い。黙って待っていても、麻痺した手足や全身の機能が回復するものではない。自ら積極的にリハビリに取り組む以外に、私にとっては、回復の道はないのだ。「もうこの程度しか回復しない」とあきらめたら、それ以上は絶対に回復しない。
自分には甘えがあったのではないか。誰かが治してくれると思っていたのではないか。これまで、本当に真剣になって自分からリハビリに取り組んだと言えるだろうか。
ギラン・バレー症候群の回復過程は患者によって様々であり、神経内科医は患者を退院させるまでが、主な仕事となっており、2、3年以上のリハビリの症例はほとんど持ち合わせていないため、確かなことは誰も分からないと思う。発症して半年以上経つと、リハビリは難しい(リハビリの効果は現れにくい)と言われているが、それは一般論であり、個人によって違う。やってみなければ分からない。また、ギラン・バレー症候群は、言葉は適切でないが、脳梗塞や頚椎損傷などの脳神経や中枢神経の障害のような、治るのが難しいと言われている障害とは異なる。抹消神経の障害であり、治る可能性がある。
そこで、「自らの力で絶対に回復させる」という強い信念で、リハビリの方法を毎日、寝ても覚めても真剣に考え工夫し、粘り強く続けていけば、維持期、慢性期になっても、たとえわずかずつでも着実に回復していくと信じ、私はひたすら頑張った。
私は、来る日も来る日も、それこそ真剣になって懸命にリハビリに取り組んだ。ある数学者の言葉を借り、「数学」を「リハビリ」に置き換えれば、私は「とにかくリハビリに命を懸けねばと、朝から晩まで、寝ても覚めても、阿修羅のごとくリハビリばかりやった」。
この間の出来事についても、簡単に述べておきい。
2003年(平成15年)3月、発症後約1年9ヵ月目に職場を休職のまま定年退職を迎えた。H研修所長とK総務部長がわざわざわが家まで来られ、退職の手続きをした。職場は最後まで私を厚く処遇してくれた。
職場には大変迷惑をかけてしまったが、自分の40年近くにわたる職場の最後の姿がこんな想像だにしていなかった形となり、万感の思いが去来した。
病院から自宅に戻ってからも、その後退職してからも、職場の先輩や同僚、部下は遠路をわが家に見舞いに来てくれた。
2003年(平成15年)5月、『生かされて―ギラン・バレー症候群からの生還―』を健友館から出版した。国リハ病院で書きあげたが、発刊は大分遅れた。健友館とは「共同出版」となっているが、ほぼ自費出版で1000部発刊。関係者には贈呈したが、この種の本としては珍しく、書店を通して多くの方に読んでいただけたようだった。在庫は数十部残すのみとなり、増刷か改訂版を出すか、そうすれば印税が入るかなどと甘いことを考えていた。
しかし、2004年(平成16年)6月、健友館は自主廃業(倒産)してしまった。そこで、在庫をオンライン古書店「パラメディカ」様にお願いし、委託販売していただくこととした。
2003年(平成15年)11月、当ホームページ「ギラン・バレー症候群のひろば」を開設した。入院中にインターネット上にあった、ギラン・バレー症候群にかかられた方々の闘病記を妻に何度も繰り返し読んでもらい励まされたが、退院後、あの闘病記をいくつか集めたホームページはすでに閉じられていた。個別のホームページはそれぞれ有用な情報であったが、複数の闘病記を集めたホームページはついに見つけ出すことはできなかった。
そこで、私は慣れない手つきで苦労したが、当ホームページを立ち上げた。かつての私と同じように、現在闘病中の方々やそのご家族、友人に対して、患者の目線での情報提供、励ましのメッセージを送り、少しでも役立つことができればと思った。当初はかなり簡素なものであったが、多くの方々から投稿や協力をいただき、次第に充実していった。これも、現在の私にできるささやかな「社会への貢献」であるかも知れない。
しかし、人のために尽くすこと以上に、このホームページを通して、私自身が得たものは大きかった。ギラン・バレー症候群にかかられた方々と交流が図られたこと、ギラン・バレー症候群についてよく勉強させてもらったこと、リハビリの必要性を教えてもらったこと。さらには、社会とのつながりや、やりがいをもたせてくれたことなど。
2004年(平成16年)7月、米国夏期ビジネス講座受講30周年のOB会がシアトルの州立ワシントン大学キャンパスで開催された。結局、私は参加できなかった。参加されたメンバーの何人も方々から手紙や写真をいただいた。Nさんは大学の名前の入ったキーホルダーを送ってくださった。
現在、2006年(平成18年)12月、発症後5年半、本格的にリハビリを始めて3年9ヵ月目になり、手首、足首から先に麻痺が残っているため介助されながらも、何とか日常生活を送れるまでに回復した。妻に支えられ、それなりに日常生活を楽しんでいる。読書も、音楽を聴くことも、テレビを見ることも、おいしいものを食べに行くことも、………。
家族や家庭生活や、あるいは読書や音楽や金融・銀行の研究などについていろいろと書きたいことがあるが、ここでは省略する。ただ、「生かされて」いることに感謝し、今ここを精一杯に生きていることだけは、付け加えさせていただきたい。これまでの生き方を深く反省し、家族を、家庭を何より大切に考えるようになったことも。
衣服の着脱や風呂では介助を必要としているが、食事は介助箸と普通のスプーンで食べている。普通の箸を使うことや筆記具を握ることはできない。トイレは一人で行ける。歩く方は、室内では伝い歩き、外ではロフストランドステッキを握らせてもらい歩く。足首がクネクネするので、平らな所でないと怖いが、装具は着けない。
週1回通っていた病院のリハビリは、例の「リハビリの日数制限」のため取り止めたが、「訪問機能訓練」は引き続き週3回受けている。
自分でリハビリができるようになったため、(1)腹筋、背筋、スクワット、腕立て伏せ、鉄亜鈴を使っての腕、肩の運動などを取り入れた、自己流のストレッチと筋力トレニーングをし、(2)ロフストランドステッキを握らせてもらい、家の近くにある広場を歩き、(3)階段を4つ這になって上り下りをしている。これらを一日何回も実行している。リハビリと総合的な体力づくりである。
食事には気をつけ(良質の蛋白質、緑黄野菜、海草を取り、塩分、脂肪は避ける。規則正しく、腹八分目を守る)、酒は入院以来一滴も飲まず、夜はぐっすり眠り、ストレスはまったくない。薬は、ビタミン剤以外は一切服用していない(花粉症の季節には、ステロイド系でない薬は飲む)。1ヵ月前の採血、採尿の検査では、30以上の全ての項目が正常値に収まっていた。絶好調である。
回復も維持期、慢性期に入ったような気もするが、これからも回復していくことを信じ、毎日リハビリに励んでいる。たとえ回復が難しくても、体力をつくり、体調を整え、後遺症と「うまくつき合う」方法があると信じているからである。
<了>