闘病記(S.I.様)

  S.I.氏〔発症時=平成28年3月、64歳、男性、訪問診療ドライバー〕



 

ギラン・バレー症候群体験記

 

(前兆)

 3/11(金)カラ咳と8度越えの発熱のため、近所の耳鼻咽喉科医院に受診。

インフルエンザ検査は陰性で抗生剤(アモキシシリン)他を処方された。

一週間後の3/18(金)咳、発熱は治まったものの、喉の奥に違和感があり、徐々に酷くなるので再度受診した。念のためもう一度インフルテストをしたが再度陰性。鼻腔から挿入したカメラで喉を診てもらったが異常なしと由。「わかりません」喉ドロップでも出しましょう、で帰らされた。

その翌週3/22(水)は送別会で飲酒。特に体調が悪いわけでなく、ツバを飲むときに喉の奥に違和感がある。

 

(発症)

 3/31(金)会社終業前の休憩室で体の異変に気がつき、同僚に話してみた。

「両手両足がシビれるってなんだろうね?」。何気ないつぶやきが、この病気のスタートだった。

最寄り駅までの徒歩7分が今日は嫌に遠く感じる。半分を過ぎた辺りでガニガ二歩きになりながらも、何とか帰宅した。夕飯もそこそこに、倒れるように横になる。

 

(ギランへの幕開け)

 何の病気なのか、今まで体験した風邪とは何か違う。両手両足の指先からのシビレ感は徐々に強くなり、手足に力が入らなくなってきた。布団から立ち上がりトイレに行くにも、そこら中に掴まらないと起き上がることも辛くなってきた。4/1(土)早朝、ただならぬ自分自身の病状にネット検索をする。両手両足 シビレ 脱力この検索ワードで答えが出た。風邪や下痢の病後数週間に発病これもピッタリだ。自分で病名を「ギラン・バレー症候群」であると確信しました。

 

 先ず何科の病院に行けば良いのか、土曜日に初診受付の病院はあるのか?次々と検索していくと神経内科土曜日午前OKのクリニックを発見。開院一時間も前に到着し悶々と待つ。ようやく九時に受付で問診を受け、症状を説明(ギランとは言わず)。すると数十分待たされてから呼ばれると、メモ用紙に近所の大病院名と電話番号が書いてある。これを渡され当院では診られないので、こちらへ行って下さいでも紹介状だけでも書いてもらえませんか?診られないので書けません。出だしから最悪である。朝一番から並んでと・・・腹も立つが怒っても仕方ない。再度車へよじ登り2つ先の駅まで走った。某電機メーカー付属病院到着。この時点で午前10時近く。ヨレヨレと掴まり歩きしながら受付へ。

 自分でも症状が進んでいると感じて、受付の初診問診でギランバレー症候群じゃないかと思います。神経内科の先生をお願いしますと言ってしまった。

 普通、患者が珍しい病名を自分から言うなんて無いでしょう。よほど精神的な病気の人と勘違いされます。

 しかし、これが幸運のスィッチが入った瞬間でした。土曜日で大勢の患者さんが待つ待合室でも十数分で呼ばれました。受付曰く、たまたま神経内科の医師の手が空いたので、すぐ診ます。なんてラッキーなんでしょう。打腱ハンマーで両手両足を叩きまくり。病名は ”ギラン・バレー症候群で間違いないでしょう。車で来られたらのなら、危険だからここへ置いて行きなさい。タクシーを飛ばせば昼までに間に合いますと某大学病院の神経内科への紹介状を書いてくれました。


(入院)

 大学病院へ着いたのが12時ごろ。すでに一般診療時間は終わっていたので救急窓口へと回された。そこからが凄い。診断室に通されると次から次へと医師が増えた所で色々な診断が始まった。タクシー内で連絡した家族も揃ったところで病名が間違いないこと、これから起こり得る最悪な状態や色々なことを説明された。

 即刻、EICUに運ばれ入院となった。背骨に針を刺す怖い骨髄液検査も陽性。

病気の説明を聞くほどに、これからの仕事・家庭・費用と諸々な心配の波が押し寄せて気分は沈みました。いちどきに多くの判断、署名、病気の説明と聞かされ頭はパンク。すべて家内に任しました。これからは、まな板の鯉されるがママ、医師に任せるしかありません。

 その頃から持病の腰痛が激しく痛み、腰椎穿刺の痛みと合わせて辛いのです。

ICUでは電極をたくさん付けられピッピッピとモニターには心電図が賑やかなグラフを書いてます。病状はその時、まだ序の口だったらしく、免疫グロブリンの大量静脈点滴が始まっても悪くなる一方でした。

 徐々に両手両足のシビレ感が増してきて、手足を氷水に浸けたように痛みます。

腕と足には、血圧測定で使うバンドを隙間なく並べ最高に締め付けたような痛み。

おまけに先に書いた腰と腰椎穿刺の痛み。三日間位は寝られなかったと思います。

一時間ごとに自動測定する血圧計のデータが250を超え、どこか脳の弱いところが破裂しやしないか心配しました。普段高いとは言え150以下の血圧でしたから、体中の痛さから血圧が上昇したのでは?と素人なりに考えたのです。

 せめて腰痛を治めて欲しいと再三訴えますが、グロブリン大量投与との関係なのか肝臓の数字が悪いとかで、朝晩2回ほどのロキソニン錠が精々の投薬でした。

 そんなとき、たまたまICU隣室に来た麻酔科医クルーに担当看護師が伝えてくれました。その麻酔科医の処置の早いこと。聞いてから10分程で仙骨ブロック注射を打ってくれました。その前はナースコールで痛いと伝えて来るまで30分、ロキソニンテープが届くまで2時間。その間、脂汗を額に滲ませ耐えるだけです。

痛さを耐えることが病人の仕事。また痛さを体に刻まないと快方へは転向しないとか自分なりに根拠のないことを悶々と考え、耐えていたのです。その我慢で胃から出血していたたことが後に判明して驚きました。

 5回目最終のグロブリン点滴が済んだ頃、病状は最悪の底だったようで、ウトウト寝た夢の中で怖いものに追いかけられ、必死に逃げますが息が切れて走れないのです。何回も同じ夢を見ました。そんな時、ふと見たバイタルモニターに表示されてる血中酸素量が71なのです。普段96以上では?。まぁ機械ものだから間違いかも・・と考えていたら、鼻へ酸素チューブが装着され、呼吸も楽になりました。

このまま横隔膜もマヒして、更に心臓もと・・・もう怖いことしか考えられません。

 両手両足の麻痺は体の中心に向かって進みます。顔の筋肉も麻痺してパ行の発音が出来ず、飲んだ水が唇から漏れます。笑えば顔が引きつり、芸人のタケシさんのようなニヒルな笑顔になってしまうのです。

胃腸も麻痺しましたから、腸の中にガスが大量発生。胃を押し上げて、食欲ゼロ。

無理に飲み込むと食べ物が胃に落ちず、吐き気で耐えられません。

 私の意識のない間に導尿カテーテルや紙オムツを当たり前のように装着されて、恥ずかしさも何もあったものではありません。開き直るしかないのです。

摘便やら浣腸やら、この苦しさも辛く、固形物を食べなければ・・・と馬鹿なことを考えるようにも思いました。その最初の摘便の際、胃の出血の痕跡が出たのですが、この病気の特徴から急性期の頃に胃腸の管理してくれていたらなと思いました。

 そんなICU生活6日目、治験薬参加の説明を受けました。もう病状が最悪のときですら、溺れる者、藁をも掴む状態です。もうペンも持てない状態ですからサインもミミズの跡のよう。それから1週間に1回、エクリズマブを計4回点滴しました。

 この点滴を受けた翌日は少々体がだるく感じ感じましたが、1回ごとに病状が回復して行くのが感じられました。このエクリズマブという薬は超高価らしいのですが、治験という契約で無料で提供されました。私には劇的な効果を発揮してくれましたが、万が一重篤な副作用があっても文句が言えません。

 ICU生活も11日目には病状も安定したようで普通病棟へ移動、リハビリの開始です。毎日病室出張リハビリで、何も感じなくなった両足を訓練してくれます。

 驚くことにカレー用のスプーンが重くて持ち上がらないのです。プラスチックの物を見つけてもらい、肘の下にクッションを入れての食事です。食べれば吐き気とリスのように頬に食べ物が溜まる状態。なんでも食べなければ回復できないという義務感がなければ耐えられません。70Kgあった体重が54.6Kgにと15Kg以上痩せてポッコリ腹も消えました。リハビリでの第一目標はトイレでの排便。とにかくオムツでは出ないのです。最初は車椅子、介助トイレの全て看護師2人介助。自分の体が全く支えられないのです。それでも看護師さんの優しい介護のお陰で1週ごとに素晴らしい回復度を達成。入院38日目には伝え歩きが出来るようになり、大学病院系列のリハビリ病院に転院できました。

 

(リハビリ)

 大学病院系列の別院に車椅子ごとシャトルバスで移動、たった五分で到着です。

 ここでは、比較的高齢者の機能訓練が行われてる様子。早速OToccupational therapy)、PTphysical therapy )、STspeech therapy )と3つの訓練スケジュールが組まれて、各50分程の訓練が始まりました。何やら難しい3つの分類ですが、簡単には手足の基本機能訓練、運動機能訓練、発声顔面機能訓練です。

 私の場合、筋肉への命令神経が不通になった為に腱(スジ)が委縮した状態です。

体中の屈伸訓練が日課として続き、徐々に手足の感覚が戻ってきました。平行棒の通路を手放しで歩けた時には、本当に嬉しかったです。歩けてからは一日ごとに劇的に回復し、朝晩に廊下を歩き回り、自主訓練してました。

同じフロア、病室には私よりもっと重症な方が多く、元気な私は居づらくなり15日ほどで半ば強引に退院してきました(平成28年5月)

 

(復職)

 思ってもいなかった障壁が待ち構えてました。私自身が退院した回復したと思っても、周囲から見ればマダマダ十分に病人なのです。早く社会復帰したい焦りが突き走り、そのギャップに気落ちする毎日でした。今になれば当たり前のことで、客観的に考えられますが、当時は病み上がりそのものだったのでしょう。責任ある仕事を任せて貰える訳がありません。更にひと月間の自宅療養と自主リハビリを経て、医師からの復職可能の診断書も提出して、ようやく復職できました。 


(費用・他)

  様々なこの病気の体験ブログを拝見しましたが、費用について書いてる所はありませんでした。入院というと心配なのは、やはり費用です。

 私の場合ですが、最初のグロブリン大量投与(100万円以上)の際に担当医師から”高額医療費制度”を申請するように言われました。自分の年収にもよりますが医療費が月に何百万掛かろうが、10万円以下に保険負担してくれます。少し前までは請求額を一旦納付して、高額医療申請後返納される仕組みだったのですが、今は最初から差額のみの請求です。大学病院は2年前に新築して最新の明るい病棟で各ベットにI-PAD(タブレット)が常備され、ネットやり放題。そのI-PADから院内にあるコンビニに商品を注文お届けしてもらうことも可能でした。そんな病院でも差額ベット台はゼロ円です。私の場合、2つの病院を含めて53日間の入院で20万円以下でした。実際にはこれに毎日通って来てくれた家族の交通費などでしょう。

 

 今回、治験治療参加の内容は今後も治験募集のあるなしが不明なので割愛いたします。この病気は単相型と言うそうで、病状が一旦は悪い方向に進みますが、底まで行くと後は良くなる一方だそうです。早い治療で最悪の病状時が浅いほど後遺症や回復期間の長短に関係するようです。今回私の場合、ラッキーにも、やる気のない1カ所目のクリニックで断られたこと。2カ所目に行った病院の医師が、ギラン・バレー症候群の研究をしている大学病院を知っていたということ。大学病院では定員締め切り間近の治験に参加できたことです。お陰でこの病気では軽い経過で、実質3か月半で復職できました。10万人に1~2人の発病率と聞きます。

この体験談をお読みの方は、本人や身内知り合いの方が、この病気に罹ったことと思います。一時は辛く重い状態になりますが、必ず快方に向かう病気である、早い治療ほど軽く治る病気だということを知っていただければ幸いです。