闘病記(N.T.様)

 N.T.氏〔発症時=平成17年8月、44歳、男性、会社員〕



【はじめに】 
 私は平成17年(2005年)8月にギラン・バレー症候群を発症しました。急速に症状が進み、救急車で緊急入院。重症で初期はICUへ入室し、人工呼吸にもなりました。入院期間は5ヶ月半(173日)に及びます。幸い治療とリハビリが奏効し、退院して1ヶ月後から、徐々にですが仕事にも復帰できました。長文になりますが、発症時から現在までの経過を記させていただきます。

【平成17年8月1日】
 朝、熱っぽいので体温を測ると38度あった。熱の他にカゼらしい症状はなく、どうしたのかと思う。内科医院で診てもらうと「喉が少し赤いのでカゼでしょう」とのこと。翌日平熱に戻ったので、カゼにかかったことは次第に忘れていった。
【8月9日】
 夜、会社帰り、最寄駅に降りると、周囲の景色がぼやけて見える。眼鏡のフレームがゆがんだのかと思ったが、右目と左目の焦点が合っていないことに気づく。目の疲れが原因と思い、一晩様子をみることにする。帰宅後、冷たいものを食べると、口の中が少ししびれた。
【8月10日】
 起床すると右目のまぶたが垂れ下がっていた。急性結膜炎にかかったものと思い、近くの眼科医院へ歩いて行く。なぜか右脚のふんばりがきかず、右脚を引きずるように歩いた。
 診てもらうと、「眼球震盪を起こしており、眼ではなく脳の病気では?」とのこと。
 車の運転操作を誤るといけないので、バスで紹介先の脳外科医院へ行く。脳のCT検査を受けたところ、「脳内はきれいです。精密なMRI検査をしたほうがいい。神経の病気の可能性もある。CT写真を持参し大学病院の神経内科を受診しなさい」と言われる。脳には異常がなさそうで良かった、と一安心していると、「治療が遅れると手遅れになるかもしれないので、できるだけ早く受診しなさい」と何度も念押しされた。
 夕飯は普通に食べることができたが、食後にアイスクリームを食べ始めると、口の中に経験したことのない強烈なしびれを感じ、食べるのを止めた。
【8月11日】
 朝起きようとしても、上半身を起こすのがやっとで、立ち上がることができない。喉の奥にはひきつるような感覚があり声も出しにくい。ようやく尋常でない病状だと気づく。
 妻は昨日から不在だったので救急搬送を依頼。指先がこわばり電話のボタンもうまく押せない。なんとか身支度し、玄関に這って行く。腕が持ち上がらず、苦労して施錠した。
 救急車が到着し受診予定だった東京医科大学八王子医療センターの救急外来に運ばれる。
 主治医になる神経内科のY先生から、ベッドに横になった状態で診てもらう。「一週間くらい前にカゼをひきませんでしたか?」と聞かれる。そういわれると・・・と忘れていた発熱のことを思い出す。それが何か関係あるのだろうか?と思った。
 MRI検査を受けるため検査室へ行く。車イスに座って押して運ばれた。MRIの後、神経伝導度測定検査を受ける。手足に何度も電撃を感じ、終了したらほっとした。
 入院することになり、空いていた個室に入る。昼食がベッド上に運ばれる。食欲はあったが、腕が持ち上がらず、箸まで手がとどかない。食べるのをあきらめた。
 午後、妻が駆けつけてくれた。その後、病室で髄液採取をされた。
 夕方、Y先生から説明を受ける。「ギラン・バレー症候群という病気で、時間がかかるが、治ります。少なくとも4週間は入院が必要です」 4週間も入院とは、と呆然とする。
 治療は、効果が同程度である2つの内、身体の負担が少ないというガンマグロブリンの点滴を希望する。病名確定と治療開始は比較的早いほうだと言われる。
 片腕に静脈の点滴、反対の腕に動脈採血用の針(血圧監視用)、心電図センサ(胸など)、サチュレーションのセンサ(手指)、尿管カテーテルが装着された。体温が上がってきたので、氷枕を頭の下と背中に2つ当てられた。
 夕食は妻にスプーンで運んで食べさせてもらうが、食欲がなくなり、二口ほどで止める。
 両脚に鈍痛があり、膝を少し曲げてもらったり、枕をはさんでもらったりと、少しでも痛くない姿勢を模索する。ツボ押しのように足裏のマッサージを妻にしてもらった。ナースコールは、右手でわしづかみにし、左手にボタンを押し付けて鳴らすことができた。夜中、背中が痛くなり、看護師さんに何回か体位交換を頼んだ。
【8月12日】
 腕も指もほとんど動かなくなった。朝、身体を拭いたうえ、パジャマを交換してもらう。身体がほとんど動かないので看護師さんが二人がかり。肩を抱き起こされると、身体の力が完全に抜けて指先までダラリと垂れ下がり、操り人形の様だと思う。
 床ずれ防止のため、エアマットを敷いてもらう。そのせいで楽になったが、少しずつ空気が抜けるため、だんだん背中が痛くなってきて、毎日ポンプで空気を補充してもらう。あまり抜けるのが早いので、調べてもらうと小さい穴があったりした。
 夕方、呼吸が苦しくないかと聞かれ「少し苦しい」と言うと、人工呼吸器を装着された。口からの酸素吸入で、声を出すことができなくなった。ナースコールのボタンも押せなくなったので、妻が徹夜で付き添ってくれた。
【8月13日】
 人工呼吸器を着けると肺炎になりやすいとの説明を受けていたが、痰がひっきりなしにでるようになる。看護師さんにカテーテルで吸引してもらうがすぐに痰がたまる。吸引の際は酸素のチューブを外すので苦しい。喉だけでなく口の中にも泡のような唾液か痰が一杯になる。胸の中に小さな蟹でもいて、ひっきりなしに泡を吐いているような気になる。
 今まで神経の病気にはなったことがなく、神経の働きを意識することはなかった。手、脚ばかりか呼吸まで神経に支配されていることを知り、神経の大切さを思い知った。
【8月14日】
 夕方、痰の吸引を受けていたとき、目の前が真っ暗になり、頭を逆さまにして奈落の底に落とされる感じがして意識がなくなった。気がついたらICUに運ばれていた。「肺炎がひどくなり呼吸困難に陥ったので、ICUでより綿密な管理をします」と説明される。
【8月15日】
 看護師さんが文字盤を出して、伝えたいことを読み取ってくれた。 かすかにうなずくことだけできる状態であったが、巧妙に一文字ずつ文字を読み取ってくれ、簡単な言葉なら正しく伝えることが出来た。経管栄養を始めるためマーゲンチューブを挿入された。飲み込みができないため、細い管を苦労して押込んでもらった。胃のレントゲンでうまく入ったかどうか確認された。
【8月16日】
 ICUに移る前から予定されており、午後気管切開を受ける。ICUのベット上で受けたはずだが、全身麻酔で実施されたようで記憶がなく、気がついたら終了していた。術後も痛みを感じなかった。ガンマグロブリンの点滴は、この日で5日分を終了した。
【8月17日~21日】
 両脚に血栓を防止するための白いタイツを装着された。
 肺炎の治療のため、気管支鏡検査を受ける。肺の状態を観察しながら、膿を吸引してもらう。酸素の供給をいったん止めて検査するため、非常に苦しい思いをした。先生が二人で、血圧とサチュレーションの変化を見ながら、かなり高くなったら酸素をつないで、少し休み、落ち着いたらまた実施し、というのを何度か繰り返す。検査後は少し楽になる。
 ずっと発熱が継続しており、さらに脈拍数が高い状態(毎分140回くらい)が続いていた。常に心臓がドキドキしており、もっとひどくなって心臓が破裂するのではないかと心配になった。「頻脈」症状で、重い自律神経障害だったと後で聞かされる。
 ポータブルの超音波検査装置(エコー)で毎日、心臓の様子を検査してもらった。
 首が横にも動くようになってきており、検査装置の画面で心臓の映像を見せられた。
 空調は完備されていたが、発熱が続いていたので発汗が多かった。ベット上で髪や脚を洗ってもらうとさっぱりする。酸素ボンベを付けて、苦労して介助浴室へ運ばれ、全身を洗ってもらったこともあった。とても気持ち良かったが、入浴後は血行が良くなりさらに心拍数があがった。車椅子で屋外にも一度出してもらった。
 手がほんの少し動くようになり、ナースコール代わりに腕に鈴を着けられた。しばらくすると、ナースコールをつかむことができるようになった。右手でつかんで左手に押し当ててブザーをならすことができるよう、ボタンの部分に細工をしてもらった。
 両手が腹のあたりまで動かせるようになると、看護師さんから、どこまで動くようになったか?度々尋ねられる。胸のあたりまで動くようになると、夜間、拘束帯で手を動かせないようにされた。
 ICUでは昼夜を問わず患者の出入りがあり、夜もあまり眠れなかった。時計も見ることが出来ず、時間がたつのがとても長く感じた。夜中、看護師さんの交替の気配を感じると、その時間であることがわかった。夜中、時報のようなチャイムが鳴っていたが、鳴る数が多く感じられ、うまく数えられなかった。朝方、ブラインドを閉じた窓辺が、薄ぼんやり明るくなってきて、ようやく夜が明けてきたことがわかった。
【8月22日】
 週があけた。朝、「少し良くなったので一般病棟にもどりましょう」と言われ、車椅子で元いた神経内科病棟の個室に運ばれる。頻脈もすこしずつ収まってきた。
【8月24日】
 リハビリを開始することになった。病室から離れたところにリハビリセンターがあり、ベッドに寝たまま酸素ボンベを携えて運ばれる。この日気切部のカニューレ交換もあった。
(以後、2週間おきに2度交換された)
 ICUから戻って以降、妻との意思疎通は左手のひらに右手指で文字を描いて読み取ってもらうか、文字盤をつかうかしていた。指が多少動くので、紙に文字をかいてみることにした。ベッドにあおむけの状態で、落書帳を腹の上に乗せ、三色ボールペンで文字を書いた。文字を見ないで描いているので、重なったりしたが、妻が書く位置を指示したり、色を変えてもらったりして、そこそこ、言いたいことを伝えることが出来た。
【8月25日】
 ヘッドレスト付きの車椅子でリハビリに行く。首がカクンとならないか、Y先生に心配された。
 入院から2週間たった。右目のまぶたは垂れたまま、さらに口元がゆがみ、口が開いたまま、といったように顔の筋肉が完全にマヒして表情がなくなっていた。リハビリセンターでは、理学療法士のT先生から低周波治療器による治療を受けた。おでこ、目のまわり、口元などに電極パッドをあて断続的に電気を流す。電気を感じたら、眉を上げたり、口を「イー」と開く状態を意識するようにといわれ、そう意識するものの全く動かなかった。電流を最小(数mA)にしてもらっても、皮膚が薄いためかピリピリと痛みを感じ終わるとほっとした。(1箇所5分を6箇所ほど実施)
 右脚の脛も低周波治療を受けた。脚の方は、電流を大きくしないと刺激を感じないため、電流を最大近く(数十mA)まで設定をあげてもらうが、痛くなかった。電流が感じている間つま先を上げることを意識するように言われたが、つま先も全く動かなかった。
 立ち上がる練習も開始した。平行棒の端に車椅子を止め、平行棒をつかんで立ち上がる。一、二の三でパジャマのズボンの後ろを引き上げてアシストしてもらう。腕を下に押す力が少し出てきたので、腕の力も支えになって、何回かトライする内になんとか立ち上がれるようになってきた。T先生に「なるべく腕の力に頼らずおじぎをするように立てるようにしましょう」と言われる。T先生を始めリハビリのスタッフの皆さんは明るく親切に指導してくださり、沈みがちな気分が晴れた。
【8月26日】
 数日おきに気管支鏡検査を受ける。相変わらず苦しい検査だが、前より苦しさが少し和らいでいる。自発呼吸が戻ってきているとのことで、酸素濃度も少し下げられる。肺の状態も良くなりつつあるそうだ。まだ体温が高いので、午前中に検査を受けると、汗だくになって身体を拭いて着替えさせてもらった甲斐がなくなってしまう。
【8月30日】
 午前、神経伝導度測定の2回目を受ける。1度経験しているので、少し楽だった。
 午後のリハビリを終えて病室に戻った夕方、ベッド上で理髪店の方に散髪をしてもらう。汗をかいて頭が痒かったので、丸刈にすることに決めており、紙にメモ書きして依頼した。
【平成17年9月1日~3日】
 8月29日に尿管カテーテルが終了になり外された。両腕の採血と点滴の針も同じころ外された。身体に繋がれた管が減っていくのは嬉しい。その都度一歩前進できたと思うようにした。
 肺の状態も徐々に良くなって、酸素濃度が下がってきて、9月1日に人工呼吸器が外れ、大気呼吸になった。ただし、その替わりに蛇腹ホースが繋がれ、加湿蒸気の供給が以降続いた。経管栄養を受ける前にネブライザで、痰の切れを良くする薬を吸入した。
 リハビリでは、平行棒の中での歩行訓練が始まった。ひざ下まである装具を右脚に装着してもらい、平行棒の端に車椅子を置き、立ち上がって平行棒の端まで行き、向きを変えて戻ってくる。右足の麻痺と筋力低下のため、そろりそろりと時間をかけて一往復するのがやっと。
 一旦車椅子で休んでまた一往復するという形で、体力も落ちていたので、最初は2往復するのが精一杯だった。平行棒の端で向きを変える際、小さい歩幅で少しずつ回転するのだが、バランスを崩さないようにとても気を使った。
 主治医のY先生が状態を見に来られ、「左足の大腿骨で歩行しているようだ」と言われる。麻痺の少ない左足に体重をかけ、右足が前に出ても右足にはほとんど体重がかけられなかったためで、力が着いてきた腕でも代償していた。平行棒を握る力を少しずつ小さくしてみるようT先生に言われ、少しずつできるようになっていった。
【9月4日】
 介助浴室で入浴させてもらう。人手がかかるので、入浴は外来急診日の週末が多かった。ストレッチャーに移すのに、看護師さん(女性)が4、5人がかりで行うので仕方ない。
 入浴後に経管栄養のマーゲンチューブを交換された。最初のより太くなり、今回は強引に押し込まれた感じで、入ってほっとした。こちらも、以降2週間おきに2度交換があった。
【9月5日】
 週があけ個室から6人部屋に移ることになった。ナースステーションから2番目の部屋。
 病室でY先生から、嚥下を試してみましょうと言われる。そのために妻に買っておいてもらったゼリーをほんの一さじ、恐る恐る口に含んでみる。飲み込もうとしたが、どこかに引っかかったらしく、息をするとガーガーと変な音が出る。まだ無理そうだ、ということで経管を続けることになった。 この日、心電図のセンサも外され、体についているのは経管のチューブと加湿用の喉のチューブだけになった。
【9月6日】
 リハビリに作業療法(OT)のメニューも追加になった。まず、車椅子でテーブルに向かい、紙に鉛筆で住所と名前を記入するように言われる。正しくできたので、担当のO先生への自己紹介がわりになった。握力計で握力を測ると、精一杯握っても針がほんの少し動いただけ、右左ともに5kg以下。
 OTでは上肢の筋力回復のためのストレッチをしてもらったり、いろいろな器具を使ったトレーニングをしたり・・・。輪投げに使うような縄の輪や、プラスチックのコップの位置を移し変えるトレーニングは、腕が思うように持ち上がらずしんどい思いをした。
【9月7日】 
 夕方、病室で衆議院議員選挙の不在者投票をした。係の人に説明を受け、党名、候補者名、最高裁判官の信任投票とあり、それぞれ2重の封筒に入れ、封筒に一々記名したので、腕がくたびれた。見ながら紙に字を書くことができるようになり、入院からこれまでの出来事を思い出しながらごく簡単に紙に記し、以後も続けていった。
【9月9日~15日】 
 9日、リハビリで、平行棒での歩行訓練の後、歩行器を使用した歩行訓練を始める。
 12日、気切部の抜糸。「痛いですよ」と言われ抜糸されるが、痛みは少しだけ感じた。
 リハビリでT先生から「眼球が動くようになってきた。良かったね」と言われる。Y先生には「顔の左半分の表情が良くなってきた、手脚の反射も出始めた」と言われる。大きい写真の載った雑誌などを使って眼球を動かす訓練をしてみては?と薦められ、妻に数冊買ってきてもらった。顔を動かさずに眼を動かして、写真の隅から隅まで視線を移動させようとするが、思ったようには動いてくれなかった。
【9月20日】
 3回目の神経伝導度測定検査を受ける。この検査にも少し慣れてきた。後日、Y先生から結果の説明をしてもらった。「Fウェイブ」等の専門用語が含まれ、難しく良く理解できなかった。検査結果によると、軸索型ではなく脱髄型である可能性が高いと教えられた。
【9月21日】
 4回目の気切部のカニューレ交換を受ける。肺の状態は少しずつ良くなっており、カニューレの穴の径を少し小さくすると言われる。9ミリか8ミリであったと思う。
 痰も少しずつ粘っこくなってきていたので、カニューレに痰が詰まって呼吸困難になりはしないか不安だった。夜間に異変があっても早く気づいてもらえるよう、消灯の際はカーテンを閉め切らないで半分空けておくよう、手振りで看護師さんに頼んだ。また、ナースコールもすぐに押せるよう、ガーゼのバンドで右手首にナースコールの握り部を止めて眠った。
【9月22日】
 リハビリを見に来ていたY先生から、「運動量が増えてきたので、経管の量を1回分1600カロリーから1800カロリーにしましょう」といわれる。経管は1回分を2時間かけて胃に落としてもらう。1日3回なので1日6時間は、経管がつながっており、検査やリハビリの時間を考えて開始された。始める際は「お食事です」と言われる。それで命を保たれているのだが、空腹感も満腹感もなかった。食べたい気持ちがつのるばかりで、ようやくリモコン操作できるようになったテレビの料理番組などを見て気を鎮めていた。
【9月23日】
 電気シェーバーでのひげそりも自力でできるようになっていた。手鏡を使いながらひげをそっていると、舌が真っ白になっていることに気づいた。口から食事を摂っていないけれども、舌苔ができていたようだ。このころは、唾液の飲み込みもできるようになっていたので、棒の着いた飴を使って舌の掃除をすることを思いついた。
 Y先生に筆談で尋ねるとOKされ、試してみた。最初に買ってもらった球形の飴は大きすぎて持て余したので、次に薄い円盤形の飴を試したら丁度良く、毎日1個ずつ飴を舐めた。舌がきれいになると共に、何かを食べたい気持ちが幾分癒された。
【9月26日】
 OTの時間の後半にレザークラフト(革工芸)を始めることになった。皮にポンチで刻印して模様を付ける動作が腕の力や握力を回復させるのに適しているとのこと。一番簡単そうな丸いコースターを作ることにした。左手でポンチを握り、右手のハンマーで打ち模様を付ける。腕がふらふらして最初はうまくできなかった。次第にコツを掴み、それなりにできるようになった。模様を着けたら絵の具で着色し、さらにニスを塗り出来上がり。毎日少しずつ作業を進め、完成後またコースターを作った。退院までに図柄を工夫し3枚作った。細かい作業は好きだったので、作業に集中すると気分がすっきりとした。
 OTの前半はベンチでストレッチをして、その後作業テーブルのところへ移動する。ベンチからテーブルへは自分で車椅子に乗って移る。その頃は車椅子の操作にも慣れていた。ベンチから車椅子に乗るために運動靴を履くとき、ベンチに端まで行ってうっかり右足をベンチの外に出してしまうことがあった。足を支える力がないので重力に任せるままとなり、床に足裏を打ち付けてしまう。床材に柔軟性があるようで大事には至らなかった。
【9月28日】 
 歩行器を使った歩行訓練を開始してから約3週間。歩行器での歩行には慣れてきた。いつもの歩行器の訓練後に、T先生から「杖で歩いてみましょう」と言われる。ロフストランド杖を渡され、両杖で歩行にトライ。5歩か6歩よろけるように歩く。この先、杖でうまく歩けるようになるのかと思う。それでも、「コツを掴めば歩けるようになります」と言っていただけた。
【平成17年10月1日】
 病棟の同じフロアにある一般浴室でシャワーをあびる。車椅子で浴室入り口まで行き、看護師さんに見守られ壁を伝って移動する。滑って転ばないようととても気を使った。
【10月4日】
 Y先生、T先生、O先生、担当看護師さんと、妻に従って面談室で面談。本格的なリハビリを始めるため転院を考えましょうとのこと。埼玉の国立リハビリテーション病院も候補として紹介される。筆談で妻と相談して、自宅から近い病院から選択することにした。
 リハビリで、ロフストランド両杖での歩行のコツがわかってきて、少し自信が芽生えた。
【10月5日】
 気切部のカニューレを外すことになった。ゆっくりと声を出してみると声が出た。ほぼ2ヶ月ぶりである。Y先生が「以前と声が変わっていませんか?」と妻に尋ねる。気管切開によって声帯にダメージを受けることもあるとか。 妻に何か伝えようと、ついノートに字を書いてしまう。Y先生に「今日からは筆談はやめましょう。」と言われる。
 久しぶりに鼻や口から呼吸をし、匂いの感覚も戻る。病室の匂いはさほど感じなかったが、リハビリ室へ向かう途中で食堂からの料理の匂いを感じ、臭覚が戻ったことを実感した。
 今日から言語療法(ST)も開始。病室でS先生の指導を受ける。カニューレは外されたが、口が閉じないのでうまく話せない。ゆっくり「あいうえお・・」の発語訓練をする。
 病室では、蛇腹ホースから開放され、右肩を自由に動かせるようになり楽になった。
【10月7日】
 医療相談室でソーシャルワーカーさんと転院先病院について相談する。
 作業療法で握力測定。右、左とも10kg。リハビリ終了後、車椅子を自分で操作して病室に戻る。結構距離があり運動になる。廊下でスーツ姿の人達とすれ違う。車椅子から見上げると、颯爽と歩いているように見え、自分も再び歩けるようになるのだろうかと思った。
【10月9日~12日】
 9日、車椅子に座って、右足を自力で持ち上げて足置きにのせることが一回だけできた。
 11日、Y先生に見守られ飲み込みを試す。プチゼリーをほんのひとさじを口に入れ少しかんで飲んで見ると、喉を通ってくれた。1個のプチゼリーを数回に分けて飲み下す。
 この日で入院の日から2ヶ月。6人部屋に移ってきてから1ヶ月余り。部屋の中で最古参になっていた。後から入ってきた患者も先に退院(転院)されていき、あせりを覚える。
 12日、リハビリ後、T先生に付き添われロフストランド杖で歩いて病室まで戻る。
【10月13日】
 腕力は比較的回復していたが、握力の回復は遅かった。病室での握力トレーニング用に、妻が売店でスポンジボールを買ってきてくれた。しかし握っても、ほとんど形が変わらなかった。
 口の中に痰がたまるのが続いていたので、ティッシュペーパーを大量に消費した。ティッシュボックスの空箱を解体することも手指のトレーニングになると思い、使い切るたびに解体していた。最初のころは、右手親指だけで箱の接着部を外すことができず、両指で苦労して解体していたが、次第に右手親指を使って外すことができるようになった。
 ティッシュボックスは、枕元から床に落としてしまうと、取ってもらわなければならないので、2箱を背中合わせに貼り付けて妻に持ってきてもらった。そうするとベッドの柵に引っかかって落ちにくく、容量も倍(2箱分)になるので一石二鳥だった。
 T字杖の歩行練習を開始した。また、飲み込み状態を見るためプチゼリーを3個食べた。
【10月14日】
 昼食から病院食のプリンとゼリーを1カップずつ出される。食べ終わってから経管をつないでもらう。まともに物を食べたのは2ヶ月ぶりで、とてもおいしく感じた。毎食2カップ食べるのが3日間続いた。ゼリーはいろいろ種類があり、具なしの茶碗蒸しもあった。
【10月17日】
 マーゲンチューブを外され、体につながれていた管がひとつもなくなり、うれしかった。
 昼食は、ペースト食が運ばれた。久しぶりの食事で、飲み込みは問題なさそうだった。半分以上食べられた。夕食から少し形のある食事に替えてもらった。
 夕食はおかゆと、軟菜という柔らかく調理したおかずが運ばれ、完食できた。まだ顔の筋肉の麻痺はほとんど回復しておらず、口も常に開いたままで頬の筋肉もたるんでいた。
 口を手で押さえながら噛まないと口からこぼれる。汁物や飲み物は特に気をつけねばならず、片手で椀(コップ)を持ち、もう一方の手で口を閉じる方法で対処した。歯と頬の間に食べ物が引っかかり、その都度ティッシュでかきだした。数日後に一般食になった。
【10月18日、19日】
 2日かけて、転院候補先の二つの病院を見学させてもらった。まず外出する際、身支度に難儀した。久しぶりにパジャマから普段着に着替える。腕があがらず長袖シャツの袖に腕が通らない。紐なしの運動靴を履く際、左足はすんなり入ったが、右足がなかなか入らない。ひざ下全体がむくんでおり足も一回り太くなっていた。着替えにも時間がかかった。
 車に乗るため外に出る。2ヶ月ぶりに外の空気に触れ、ひんやりとした秋の空気が心地良い。車椅子から立って助手席に乗ろうとする。右足が持ち上がらず乗るのに苦労した。
 景色を見ていると周りの車が二重に見える。眼も回復しないと運転はできないなと思った。
【10月20日】
 病院内の眼科で複視の検査を受ける。暗い部屋で片眼に赤、もう片方の眼に緑のセロファンを着けた簡易メガネを着ける。技師さんが指し示す赤いレーザ光のポイントに重なるよう、自分が持つ緑色のレーザポインタの光を重ねる。赤いレーザ光が視野から消えるポイントがいくつもあった。技師さんは、視野内のどの位置で、右眼と左眼の焦点がどの程度ずれているかを調べるため、格子状のマップを作っていた。
 病室では、同室の患者さんが読み終えた新聞を貸してもらうようになった。記事はぼやけて見えて読めなかったが、見出しと写真はだいたいわかったので、ありがたかった。
 また、妻がインターネットの情報を印刷して持ってきてくれた。こちらは新聞の字より大きいので多少読みやすく、繰り返し読んだ。これまで話で聞いていたが、印刷された詳しい情報に接し、ギラン・バレー症候群のことがようやくわかってきた。当ホームページにあった体験談には大いに励まされ、繰り返し読んだ。
 複視だけでなく、眼をつぶっても完全に閉じない「兎眼」という症状と言われる。夜眠っているときもそうなので、ドライアイにならないように就寝前に目薬を点眼された。
【10月23日~25日】
 妻と相談して転院先を決めた。外泊して良いと言われ、自宅に帰り一泊する。2ヶ月ぶりで懐かしさを感じた。室内の移動もロフストランド杖を使い、ソファーベッドで寝た。
 24日ナースステーションから遠い病室に移る。25日、握力測定。右13Kg、左15kg
【10月26日】
 リハビリ室にある練習用の階段で、階段の昇り降り教わった。恐る恐る2回ほど昇り降りをする。動作の順序を覚えるのに、昇るときは「ひ・み・つ」と覚え、降りるときは「つ・み・ひ」と覚えた。「ひ」は左脚、「み」は右脚、「つ」は左の杖。右手は手すりをつかんだ。
 病室での回診で、「左手は反射があるが、右手と両足はまだ反射が小さい」と言われる。
【10月27日】
 八王子医療センターでのリハビリは最後。体の動きをチェックしてもらった。うつぶせになった状態で、右脚を90度曲げる動作にトライしたが、動かなかった。指のつまむ力(ピンチ力)は、左右とも1kgくらいだった。
【10月28日】
 転院の日。朝食後、手続きをして退院した。約3ヶ月間お世話になった先生方、看護師さん達、スタッフの方々へ、惜別の情が湧き、お礼を申し述べて病院を後にした。
 妻の運転する車で転院先のA病院へ移動。以後3ヶ月に及ぶ入院生活を開始した。
【10月29日】
 リハビリを本格的に開始した。PTは立ち上がる際の姿勢や平行棒内での歩行訓練など、基本的な指導から始まった。自分では杖である程度歩けると思っていたので、予想外だった。
 体の各部の筋肉の名前や、どこの筋肉が萎縮しているのでうまく歩けないのか?というような指導を受けるなど、トレーニングは綿密であった。
 OTは療法士さんに、体を見てもらいながら試行錯誤しつつ上肢のトレーニングのメニューを考えてもらった。ギラン・バレーの患者を扱うのは珍しいようで、この病気のリハビリとして定まったトレーニング方法があるようには思えなかった。
 STは、顔面の筋肉のマッサージ治療を受けた。転院した時点で表情筋は全く動かない状態だった。顔中のいろいろな筋肉を、指の腹で非常に弱い力で細かく振動させるマッサージを続けてもらった。神経内科の先生の見立てでは、顔の筋肉の回復に1年位かかるのではないか?とのことで、正直なところ、効果がでてくるのだろうかと思った。
【平成17年11月】
 転院前に、転院すると本格的なリハビリになると聞かされていた。そのため、厳しいスパルタ式の指導であるのでは?自分はついていけるか?などと心配していた。療法士の方々は熱心であると同時にとても優しく、心配は的外れだった。毎日気持ち良くリハビリに取り組むことができた。
 毎日、PT、OT、STを各々40分のリハビリを行った。(日曜日と祝日は休み)
 各々私のために作成された自主トレーニングのメニューを渡され、リハビリ室や病室のベッド上で取り組んだ。入院は約3ヶ月との見立て。早く良くなって早く退院したいと思った。
 PTとOTの自主トレは、一人でできるストレッチや筋肉トレーニング。ハンディタイプの低周波治療器があり、使い方を指導され右脚に使った(電流は約40mA)。脛の筋肉は前脛骨筋という名前であることを教わった。STの自主トレは顔のマッサージ。11月は次のようなことがあった。
【11月1日】
 OTでピンチ力(親指と人差指)を測定。右2kg、左1.8kg。5日前に測った数値より少し増えていた。 病室での水分補給用に、2Lのペットボトルを妻に運び込んでもらっていた。当初、指のつまむ力が弱く、キャップが開けられず、開栓は妻にしてもらった。(500ccのボトルは、開けることができた)その後つまむ力も少しずつ増えていき、ひざで挟み込んで両指でまわせば開くようになった。
 STでのマッサージの際、「下唇の反発が少しで出だした」と言われた。
【11月2日】
 廊下を歩いているときに、右足のつま先が床にひっかかり転んでしまう。しりもちをついただけで大事には至らず、ロフストランド杖と手すりをつかって自力で立ち上がることもできた。転倒は最重要注意事項だそうで、担当の療法士さんに心配をかけてしまった。
【11月4日】
 PTで右足の装具の着け方を教わる。ひざ下まである装具ではなく、かかとに着けるプラスチックの装具で、つま先が上がるようにするのが目的の装具。装具を着けると安心感がある。装具の分の厚さを調整するため、左足の運動靴に中敷のようなパッドを入れた。
 夕方、右手と右脚の筋電図検査を受ける。これまでに3回受けた神経伝導度測定の検査とほとんど同じ検査だが、今回は電撃がとても辛く感じた。
【11月7日】
 入院患者に推奨されていた、インフルエンザの予防接種を受ける。担当医には「問題ない」と言われたが、慎重な対応が必要であると退院後に知った。(翌年以降は接種を控えている)<補注1>
【11月10日】
 OTで、紙に印刷された迷路を鉛筆でなぞり書きするテストをした。正常範囲は16秒以下とのことだが、23秒かかった。
【11月12日】
 PTで屋外を歩行した。少し急な坂があり、歩幅を小さくして斜めに少しずつ時間をかけて上ったり下ったりして、息切れした。また、外の光がとてもまぶしく感じた。
【11月18日】
 PTで畳の上で立った姿勢から座り込んだり、座った状態から立ち上がったりする動作を教わった。
何度か練習したところ、うまくできるようになった。
【11月21日】
 A病院から外出し、八王子医療センターの眼科を外来で受診した。再び赤と緑のレーザポインタを使った複視の検査をしてもらう。状態は前回と変わっていないとのこと。
【11月25日】
 11月4日に受けた筋電図検査の結果を主治医の先生から伝えられる。「神経伝達の速度は40くらいで、正常値が50くらいなので、良くなっている」とのこと。
【11月26日】
 STで顔面の筋肉のマッサージを受けた際、眉の外側の動きが少し出てきたと言われる。
【11月30日】
 PTでエアロバイクのトレーニングを開始。15分間こぐだけで、脈拍が毎分140回くらいまで上がり、息が切れた。普段使う杖としてロフストランドに変えT字杖を借りた。
【平成17年12月】
 A病院でリハビリを開始して1ヶ月経過した。急な進歩はなかったが、ほんの少しずつ筋力が回復し、神経もほとんど気付かないものの、少しずつ回復していたと思う。
【12月1日】
 OTで木工作業を勧められる。のこぎりで板材を切ったり、金鎚で釘を打ったりする動作が上半身の筋力の回復の助けになるとのこと。うまくできるか自信はなかったが、やってみることにした。OT室の中に木工室があり、端材を使ってのこを引いてみて、なんとかできそうなことがわかった。
 療法士さんに木工の本を借り、最も簡単そうな小箱を作ってみることにする。残材をもらって、寸法取りをしてのこぎりで切り出し、紙やすりで仕上げ、木工用接着剤を使って組み立てる。毎日のOTの時間の後半20分を使って、少しずつ作業を進め、それなりにできあがった。木工の作業も気分転換になり、筋力回復に役に立ったと思う。退院まで続け、小さなものをいくつか作った。
【12月4日】
 右のお尻の筋肉(大臀筋と中臀筋)がげっそりとおちているので、右脚に力がかけられないと教えられる。意識してもなかなか右脚に体重をかけられない。平行棒で姿見をみながらトレーニングをすると、はっきり重心が左側にあり体がまっすぐになっていないことがよくわかる。
 廊下の奥に鏡が貼ってあり、鏡に映る自分の姿を見て、鏡が傾いて貼られているのではないかと思った。廊下を歩く際に体の傾きを気にしていたら、また転倒してしまった。今度もしりもちで、T字杖の片杖だったが自力で立ち上がれ、大事に至らなかった。
【12月10日】
 OTで握力測定。右19kg、左20kg。少し前に10kg用というハンドグリップを買ってもらっており、病室で握力トレーニングをしていた効果がでてきたようだ。
【12月14日】
 エアロバイクは休みの日以外毎日続けた。始めてから2週間、毎日少しずつ時間を延ばしていき、1時間連続でこぎ続けることができるようになった。カウンターが60分までなので、60分続けたら終了とした。
【12月19日】
 毎週月曜日にリハビリ担当の先生に状態を診てもらう。杖なしで歩いてみるように言われ、療法士さんに見守られながら少しだけ歩いてみる。11月初めの転院当初は、右肩を大きく回してバランスをとりながら歩く状態だったが、今回は右足をうまく踏ん張れば歩けるようになっていた。
【12月21日】
 STで、「まぶたがほぼ閉じるようになった」と言われる。
【12月24日】
 OTで握力測定。右22kg、左24kg
【12月27日】
STでのマッサージの際、「下唇の収縮がある」と言われた。
【12月28日】
 PTで病院の最寄の駅まで歩いて帰ってくるトレーニングをした。療法士さんに付き添ってもらい、T字杖で片道800mの距離を往復する。健康な人なら約12分かかるところ、往きは15分、帰りは18分かかった。駅前のスーパーにも入り、エスカレーターに乗ったり、階段を降りたりの訓練をさせてもらった。発病後4ヶ月半ぶりに屋外でまとまった距離を歩くことができ、自信になった。
【12月30日】
 今日からリハビリセンターは正月休みに入る。リハビリ以外に治療もなく(食後に薬を飲むだけ)時間を持て余すので、自宅で年越しすることにする。許可をもらい2ヶ月ぶりに帰宅する。今回は畳に布団を敷いてもらって眠った。
【平成18年1月】
 新年を迎え、1月3日まで自宅で静養した。妻と子供を頼りにして、近所の神社や小売店まで歩く練習をした。1月3日の夕方、病院に戻った。
【1月4日~】
 病院でのリハビリを再開。入院生活3ヶ月目に入り、入院から丁度3ヶ月になる1/28に退院することが決まる。退院日まで、退院に向けた準備を行った。杖を購入し、右足の装具を製作してもらった。退院後は、同じA病院に通院してリハビリを継続することにし、そのための予約手続きなどもした。
【1月13日】
 仕事に復帰することを想定し、交通機関を利用する訓練をしてもらう。療法士さんに付き添われ、電車(JRと私鉄)、バスにそれぞれ少しずつ乗った。電車やバスに乗るのは5ヶ月ぶりで懐かしい思いがした。バスはステップの高い車種だったが、なんとか乗り降りできた。不安があったけれども、無事にこなすことができ、自信がついた。
【1月14日】
 ピンチ力測定。右3.6kg、左2.3kg。ガラスボトルに入った飲料の金属キャップも開けられるようになった。
【1月17日】
 購入した折りたたみ式のT字杖が届いた。自分の杖を持つことになったが、リハビリの先生には、歩くときは杖に頼らずお守り代わりに使うように言われていた。
 右足に着ける革製装具の製作のため、石膏で型取りをしてもらう。足首まわりの装具のはずだが右ひざの下までの型を取られ、思っていたより本格的だった。
【1月24日】
 装具が届いた。着けてみると違和感もなく、すぐに慣れた。
【1月27日】
 退院前日。握力は右22kg、左29kg。(発病以前の健康診断で測定した結果と比べると、7~8割くらいまで回復) ピンチ力は、右5.2kg、左2.8kg
【1月28日】
 午後退院した。丸3ヶ月間お世話になった担当の療法士さん達、看護師さん達や先生へ、惜別の情が湧き、お礼を申し述べて病院を後にした。入院生活で増えた荷物が予想以上に多く、看護師さんにも手伝っていただき運び出した。約5ヶ月半ぶりに自宅に戻った。
【平成18年2月】
 A病院への通院を開始。一人で電車とバスを乗り継いで通院する。当初は週2回のペースで、少しずつ間隔が長くなっていった。
 同じ病院だが、通院部門となり、療法士さんが替わった。PTは、社会復帰(通勤)を想定し、確実に歩行できるようにすることを目指し、目標が一段高まった。トレーニング内容もハードになり、筋トレに近い形になった。がんばっても思うように脚が動いてくれず、しんどい思いをした。
 表情筋もすこしずつ回復してきたが、まだ不十分で、STで治療をつづけてもらった。
【平成18年3月】
 3月1日から、欠勤していた元の勤務先に復帰した。初日は雨天で、右手で傘をさしながらT字杖で歩くことになり、転倒しないよう気を使った。バスや電車で席を譲られると、遠慮なく座らせていただいた。仕事はデスクワーク主体で、病み上がりなので短時間勤務にしてもらえた。通勤ラッシュを避けることができたので、バス、電車ともに、ほとんど座って通勤することができた。
【平成18年4月】
 休日に自転車に乗ってみた。リハビリでエアロバイクには乗っていたものの、自転車で走るのは久しぶり。うまく走行できるだろうかと思ったが、なんとかできた。自転車で公園に行き、子供とキャッチボールをした。
【平成18年5月】
 自動車の運転ができそうか、リハビリの先生に聞いてみると、「大丈夫でしょう」と言われる。 八王子医療センターの眼科も受診し、また複視の検査をしてもらう。今回は、「かなり良くなっています」と言われる。
 念のため府中の運転免許試験場に行き相談してみる。すると臨時適性検査ということで、ペダル操作のテストを受けたところ、適格と判定された。
 そして自動車の運転も再開した。右脚が完全ではないので、休日に自宅から比較的近場まで運転するという程度にとどめた。
 通院のリハビリは月2回のペースになっていたが、PTの方はそろそろ終わりにしていいでしょう、とのことで、5月末で終了にした。
【平成18年6月】
 通勤のときだけ杖を使うようになっていた。駅で自分より若いのに片脚が不自由な人をみかける。脳卒中の後遺症に苦しんでおられるのだろうか? 杖なしで一生懸命歩いているのを見て、私も杖を使うのを終了しようと決めた。
 幸い勤務先が都心ではなかったので、比較的安心して通勤ができた。たまに仕事の都合で都心に行ったおり、東京駅のコンコースなどを歩くと、四方八方から不規則に人が迫ってくる気がして、ぶつかられないか恐怖感をおぼえた。
【平成18年8月】
 回復の度合いを評価してみましょうとのことで、筋電図検査を受ける。今回は左右両方の手と脚で、2時間半かかった。電撃の痛さは前回ほどではなかった。
【平成18年10月】
 リハビリ診察の際に、筋電図検査の結果を言われる。「神経は正常範囲に戻っている」とのこと。右脚はまだ片脚立ちできないので、「右脚は障害が残るかもしれません」と言われる。
 握力は右30kg、左27kgで、ほぼ元に戻った。
【平成18年12月】
 右脚は通勤の際だけ装具を付けるようにしていた。そのためズックぐつしかはくことができなかった。足首もかなり安定してきたので、自分の判断で装具を着けるのを終了することにした。そして革靴での通勤を開始した。
【平成19年8月】
 発病から2年。日常生活で困ることはほとんどなくなった。ただし、一般の人より歩く速度は遅い。また、起床の際、脚のふくらはぎが「つる」ことがたびたびあった。
【平成20年8月】
 発病から3年経過した。これまで、ちょっとカゼをひいたりしたときに、再発しないだろうかと不安を感じたが、幸い再発のきざしはなかった。
 現在は右脚に少しマヒが残っており、走ったり速く歩くことができない。右脚ではつま先立ちができないので、歩くときにはベタ足になる。
 口のまわりにも少しマヒが残っており、不定期にSTのみ継続させてもらっている。 <補注2>
経過観察として、2ヶ月に一度神経内科の先生に診てもらっている。(実際はメチコバールなどを処方していただくのが主体) 生活上の不便はほとんどなくなった。
今、発病初期を振り返ると、早い病名確定と治療開始が良い結果につながったと改めて思う。治療開始までの各医療機関の方々の判断が的確だったことが幸いしたのに違いない。眼科や脳外科で的外れの診断をされていたら・・・、八王子医療センターに救急受け入れを断られていたら・・・、もっと厳しい結果になっていたかもしれない。


 これまで、多くの医療関係者の方々にお世話になりました。改めてお礼を申し上げます。
 勤務先の方々や知人に随分心配をかけました。両親や家族にサポートしてもらい、妻には熱心に看病してもらい、子供達は回復を祈り励ましてくれました。これからも感謝の気持ちと健康のありがたさを忘れず、より健康維持に心がけていきます。

 以上、長くなりましたが、通読いただきましてありがとうざいました。

【闘病中の皆様へ】
 症状によっては長い闘病とリハビリが必要になることと思います。日々のほんのわずかの改善を感じ取られ、じっくりと回復の道を進まれることをお祈りします。

<補注1>
インフルエンザ予防接種を受けるのを控えていましたが、平成24年1月にインフルエンザに罹患。回復するまで辛かったので、翌シーズンから、なるべく予防接種を受けるようにしています。これまでに副反応などはありません。
<補注2>
通院リハビリでのSTは、平成21年に継続を止めました。

                (平成20年8月記、平成28年2月加筆)
この闘病記は、「ギラン・バレー症候群のひろば」の管理人であった田丸務様を通し、N.T.様ご本人に転載のご意向を確認した上で、掲載しております。