闘病記(PIM様)

PIM さん〔症時=昭和58年12月、10歳、女性、小学5年生〕



入院期間 : 1ヶ月間 & 自宅療養 : 1ヶ月間

入院時の治療 : ビタミン剤11錠、朝・晩のみ (入院中は3回、髄液を
        採り、歩けるようになってからは軽いリハビリを受けました。)

症状 : 吐き気、微熱、手の違和感&震え、歩行できず、片方の眼球の位置が
    ずれて焦点が合わず、ものが二重に見えました。

歩けなかった期間 : 3週間くらい

ものが二重に見えている期間 : 5ヶ月間くらいだったと思います

手の違和感 : 34ヶ月間くらい
手の震え : 8年くらい??(常に震えている訳ではなく、突発的にときどき)

通院期間 : 月1回、6年間 (「念の為経過をみましょう」というくらいのも
      のだったと思います。膝を叩かれ「反射が弱い」と言われました
      が、体育等もなんの問題もなく、全く普通の生活をしていました)



 12月中旬頃だったかと思いますが、風邪を引きました。普通の鼻風邪です。熱もありませんでした。数日そのまま学校に通っていました。ある日鼻をすすった時、ツーンとこめかみが痛くなり、その後すぐに発症したので、鼻をすすった時に菌かウイルスか何かが脳だかどこかに入ったのだろうと思ったのを覚えています。

 ただの鼻風邪だと思っていたし、終業式も近かったので、学校が休みに入ってから病院へ行くつもりで、そのまま普通に登校していたのですが、まさに終業式の日に、少し膝に違和感を感じるようになりました。「なんかヘン。ちょっと歩きにくい感じがする」といった程度です。そのうち熱が出てきて(72分くらいの微熱)、気持ちが悪くなり、寝込んだ時には歩けなくなっていました。風邪を引いてから12週間、足に違和感を感じてからは2日間くらいの出来事だったと思います。

 すぐに近所の病院へ行き、そのまま入院しましたが、「風邪をこじらせただけで歩けなくなるのはおかしい。何かやっかいな病気にかかったのだろう」と思った母は、翌日すぐに行きつけの大学病院へ私を転院させました。そこで症状を話すと、医師はすぐにギラン・バレー症候群であるだろうと診断したのですが、確証の為その場で髄液検査をして、私の病名が判明、確定したのでした。その時に医師に受けた説明は、
1、原因のわからない病気である。
2、比較的思春期の女児がかかりやすいらしい。
3、確かな治療法というのが定まっていない病気である為、自然治癒を待つしかない
4、後遺症は残らない

といったことでしたが、23年も前の事なので、今では違った事を言われるのでしょう。

 入院して数日は吐き気の為食事ができず、点滴。熱は相変わらず7度くらいの微熱でしたが、まるで一日中船酔いをしているかのようで、寝ていても、夢の中でも、それこそ24時間ひどい吐き気をもよおしていました。お見舞いに来てくれる人の「あぁ、よく眠っているみたいだね」という声は聞こえるのですが、心の中で「違うよ!眠ってなんていないよ!体を起こすことができないだけ!気持ち悪くて眠れてなんていないんだよ!!」と叫んでいたのを覚えています。数日して点滴ははずしましたが、結局2週間近く吐き気が続いていました。食事は普通食でした。

 私の場合、歩行はできないものの、足の力はありました。ベッドで寝ている状態で、医師が私の足を押さえ、「ぐっと押してごらん」と言われ力を入れると、結構な力が出るので、なんでこんなに力が入るのに歩けないんだろうと思いました。歩けませんでしたが、這うことはできました。歩けなくなってから病院へ行くまでの間(12日間)は家で、這ってお手洗いへ行っていたので、這った状態から自分で便座へ座る事ができる程度の力は入ったわけです。

 歩行ができなくなった後、すぐくらいに、ものが二重に見えるようになりました。片方の眼球の位置がずれたからです。鏡で自分の姿を見ると、その片方だけが、あらぬ方向を向いているのでした。そんな自分の顔を見るのが嫌で、トイレに行く度、そこについている鏡は見ないようにしていました。二重に見えること自体、不便この上ないのですが、変な顔になっている自分に、心の方もまた辛かったのです。

 手の違和感は、「なんとなく文字が書きづらい」といった程度で、文字を書く作業以外で不便を感じた事はありません(ナイフや包丁を使う作業はしませんでしたが、もししていたら不便を感じただろうと思います)。

 病気が進行するのも急激でしたが、回復もまた急激だったと思います。入院してから3週間ほど経った頃には、念の為歩行器は使用しましたが、なくても歩けるようになりました。足に関しては徐々に治るというより、一気に治ったような感じです。眼球の位置については徐々戻って、徐々に視点が合うようになり、治った感じです。

 治療という治療は何もなく、朝・晩食後にビタミン剤を1錠ずつ飲んでいただけなのですが、入院時に1回、入院中2回、髄液を抜く注射をしました。髄液を抜くのはかなり痛いからと、近い場所にまず麻酔を打ったのですが、それがまたすごく痛くて10歳の女児にはかなりきつかったです。3回目の時は新米の医師に担当され、麻酔も「全然効いてない」と言っているのにそのまま髄液を抜かれました。(病院では患者=実験台なのかと??思った出来事です。まだ10歳でしたが「私は実験台じゃない!」と言ったのを覚えています)。これは想像を絶する痛さです!言葉でうまく表現できないのですが、内臓を注射器の先からチュル~ッと吸い取られるような感覚と激痛に襲われました。

 髄液を抜いた後すぐには動くことはできないので、医師にベッドへ運んでもらうのですが、数時間後に出される食事時には「起き上がって食べなさい」と言われます。しかし「鈍痛の強烈なの」といった痛みが腰に広がっている為、どうしても痛くて起きていられません。仕方なくベッドに横になったまま食事をしていると看護婦さんに怒られるのですが、「痛くて無理」とも言えず、無理に起きたり、起きられず怒られるに任しておいたりしました。注射の後腰が痛い時も、だいぶ回復した後嘔吐した時(歩行できるようになってから2回嘔吐がありました)もそうでしたが、10歳の私は「具合が悪いことを告げたら入院がそれだけ長引くだろう」と思っていたので、その事を看護婦さんに話さなかったのです。

 病気が発症してから、また学校に通えるようになるまで(杖や車椅子等は使用していません。自分の足で歩いて登校できました)2ヶ月間くらいでしたし、病状そのものも、ギラン・バレーにしては軽い方だったのではないかと思います。今では後遺症という後遺症もありません。この病気の為にあきらめなくてはいけなかった事等も何も無いと思います。だからつい最近まで、ギラン・バレーがそんなに大変な病気だとは思っていなかったほどです。

 ただ、そんな病状の軽かった私でさえも、心の病から解放されるまでには、発症から10年ほどかかっています。病気になったきっかけが風邪?だったことから、その後、風邪を引く度に「また病気になるんじゃないか」と不安でしかたがありませんでした。また、手の震えが突発的に起こり、特にそれが食事中に起きると食事を中断せざるを得なかったので、人と食事をしたり、外食するのが怖くて、それを気にするあまり、たぶん後遺症とは関係なく、心の問題で手が震え出すのです。それから解放されるのに10年以上かかってしまいました。幸い現在に至るまで病気が再発することもなく、まったく普通の生活をしていることから、心の病も次第に、自然に治りました。

 私の場合、まだ10歳でしたし、不安にさせてもいけないと思ったのでしょう、医師は病気の事を話す時、必ず母を廊下に呼んで、私の目の前では何も話してくれませんでした。その為私は「何かよっぽど悪い病気なのだろう、きっと骨肉腫とか癌で、このまま私は死ぬのだろう」と、ずっと不安でいっぱいでした。歩けない、ものは二重に見える、吐き気、手の震え・・こんな状況でただ「大丈夫です。治りますよ」と言われても、とても信じられず、自分は死ぬと思い込んでいたので、体の辛さもさることながら、心も辛かったのです。一度は母に「先生は何て言ったのよ?!私が死ぬって言ったんでしょ?!そんなに悪くないなら私の前で話せるはずでしょ?!」と怒鳴りつけた事がありました。私より母の方が辛かったかもしれません。医師には「治る病気です」と言われたものの、両親は「もしかしたらこのまま治らないかもしれない」と思っていたし、中学生だった兄は「歩けなく、身体障害者になった妹を一生自分が面倒を見る」と覚悟したと言っていましたし、私自身は一生歩けない事への不安というよりは、「死ぬ」と思っていたのでした。インターネットなどもない時代です。私たちにはギラン・バレー症候群という病気がどんなものかを調べる事さえままならなかったのでした。

 幸いなことに今の私はギラン・バレーを完治しています。しかし2歳から33歳の今までずっと何かしらの病気で通院、闘病生活を続けてもいます。激痛に動けない時など、あまりに辛い時は「もう死にたい」と泣いて母に切ない思いをさせたこともありますが、1年間海外に留学する事もできましたし、やはり1年間ではありましたが、海外で働きたいという夢も叶える事ができました。留学も海外での仕事も、結局体を壊してそれ以上続けることはできませんでしたが、今の私は「あきらめずに頑張れば、やりたいと思ったことをやる事ができる自分」というものも信じられるようになりました。病気は辛いですが、病を通して学んだ事、気づいた事もたくさんあります。だから健康な人より私の方が不幸であるとは思っていません。まぁ少し運が悪いとは思いますが。

 私のこのメールが誰かに何かに役に立つかはわかりませんが、私はこの病気によっては何かを失ったり、あきらめたりしなければならなかった事はひとつもなく、後遺症などもまったくありません。インターネットなどで重傷な症例ばかりを読んでいると不安でいっぱいになってしまうのではないかと思いますが、私のように比較的すぐに回復し、また元の生活に戻れた例もあるのだということと、絶望的になったりせず、どうか回復すると信じて頑張って欲しいということを伝えたいと思い、メールを送信致します。

 一日も早くこの病気の原因が特定され、確実に治るという治療法が確立されることを願って止みません。
                          (平成18年7月記)


この闘病記は、「ギラン・バレー症候群のひろば」の管理人であった田丸務様を通し、PIM様ご本人に転載のご意向を確認した上で、掲載しております。